ドイツ帝国の成立とビスマルク外交|統一ドイツと勢力均衡を構想

ドイツ帝国の成立とビスマルク外交

19世紀のドイツ世界は、諸侯の乱立とオーストリアとプロイセン王国の対立によって分裂したままであった。この分裂したドイツを武力と外交の両面から統合し、ヨーロッパの強国として台頭させた過程がドイツ帝国の成立とビスマルク外交である。プロイセン首相ビスマルクは「血と鉄」の政策と周到な同盟外交によって、ドイツ統一と戦後秩序の維持を同時に追求した。

ドイツ統一前夜とプロイセンの台頭

ナポレオン戦争後、ドイツ地域にはウィーン体制のもとでドイツ連邦が成立したが、主導権をめぐってオーストリアとプロイセンが対立した。経済面では、プロイセン主導のドイツ関税同盟が各邦を結びつけ、関税の統一と市場の拡大によってプロイセンの影響力を高めた。こうした経済的統合とナショナリズムの高揚が、のちのドイツの統一の土台となったのである。

ビスマルクと鉄血政策・小ドイツ主義

1862年にプロイセン首相となったビスマルクは、議会との対立を押し切って軍制改革を断行し、「演説や決議ではなく血と鉄によって問題は解決される」と主張した。この鉄血政策の背景には、オーストリアを排除してプロイセン主導で統一を図る小ドイツ主義の構想があった。これに対し、オーストリアを含む統一をめざす大ドイツ主義も存在したが、最終的には前者が現実の統一案として採用されることになる。

三度の戦争とドイツ帝国の成立

デンマーク戦争とシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題

ビスマルクはまず、国際問題を利用して対外戦争を起こし、統一への足がかりとした。1864年のデンマーク戦争では、オーストリアと協力してデンマークからシュレスヴィヒ=ホルシュタインを奪取し、ドイツ民族の利益を守る指導者としてプロイセンの権威を高めた。その後、この地域の処理をめぐる対立が、プロイセンとオーストリアの決戦を準備することになる。

普墺戦争と北ドイツ連邦

1866年、ビスマルクはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題を口実として普墺戦争を引き起こし、短期間でオーストリアに勝利した。講和において、オーストリアをドイツ問題から排除し、ドイツ連邦は解体された。その後、プロイセンは北ドイツの諸邦をまとめて北ドイツ連邦を組織し、名実ともにドイツ世界の中心となった。

普仏戦争とドイツ帝国の成立

最後の統一戦争となったのが、1870年に勃発した普仏戦争である。ビスマルクはエムス電報事件でフランス世論を刺激し、開戦の責任をフランス側に負わせることに成功した。南ドイツ諸邦も対フランス戦争に参加し、ドイツ民族の団結が戦争を通じて実現した。1871年1月、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位し、ドイツ帝国が成立した。同時にフランスからはアルザスロレーヌが割譲され、フランスに深い怨恨を残すことになった。

ビスマルク外交の基本路線

  • ドイツ帝国成立後のビスマルクは、さらなる領土拡張ではなく、既存の国境と勢力均衡を維持する「現状維持外交」を掲げた。
  • 最大の脅威とみなしたのは、復讐心を抱くフランスであり、その孤立化が外交の中心目標となった。
  • 同時に、ロシアとオーストリアという東方の大国との関係を調整し、ドイツがヨーロッパの「仲裁者」として振る舞うことで、大戦争の勃発を防ごうとした。

同盟外交とフランス孤立化政策

三帝同盟と東方問題

ビスマルクは、まずドイツ、オーストリア、ロシアの皇帝を結ぶ三帝同盟を結成し、保守君主制の連帯とロシアの協力度を確保した。しかし、バルカンをめぐる東方問題でオーストリアとロシアの利害が対立すると、この同盟は不安定となる。ビスマルクは両国の対立が直接ドイツに向かわないよう、会議外交と条約調整によって均衡維持に努めた。

三国同盟と再保障条約

三帝同盟の緊張を背景に、ビスマルクは1882年にドイツ・オーストリア・イタリアからなる三国同盟を締結し、フランスに対する包囲体制を固めた。一方で、ロシアとの関係悪化を避けるために再保障条約を結び、フランスとロシアの接近を抑え込もうとした。このように、ビスマルク外交は重層的な同盟網を駆使しつつも、最終的にはフランスを孤立させることを狙ったものであった。

ビスマルク外交の意義とその後

ビスマルクの同盟外交は、ドイツ帝国をヨーロッパ大陸の中心的強国へと押し上げると同時に、大規模な戦争を抑止する役割も果たしたと評価される。その一方で、精妙な均衡はビスマルク個人の判断力と権威に大きく依存しており、彼が退陣すると急速に崩れた。1890年以降、ドイツは世界政策へと傾き、かつてビスマルクが避けようとしたフランスとロシアの接近、さらにはイギリスとの対立を招き、やがて第一次世界大戦へとつながっていくのである。