大ドイツ主義|オーストリアを含む統一構想

大ドイツ主義

概説

大ドイツ主義は、19世紀のドイツ民族運動の中で、ドイツ語を話す諸民族をひとつの国家に統合しようとする構想である。とくにドイツ連邦の枠組みのもとで、プロイセンだけでなくハプスブルク家の支配するオーストリア帝国のドイツ人地域も含めた「大ドイツ」国家をめざした点に特色がある。これに対し、オーストリアを除外してプロイセン中心に統一を進めようとする構想は、小ドイツ主義と呼ばれる。両者の対立は、19世紀ドイツ民族運動とドイツの統一の行方を左右した重要な論点であった。

歴史的背景

ナポレオン戦争後のウィーン体制のもとで、ドイツ地域は35前後の中小国家から成るドイツ連邦に再編されたが、政治的分裂と封建的な支配構造は温存された。19世紀前半になると、ロマン主義や自由主義の影響を受けつつ、ドイツ語を共有する「民族」を一体とみなす観念が広まり、統一国家を要求する声が高まっていく。経済面では、プロイセン主導のドイツ関税同盟が域内の関税障壁を取り払い、市場の一体化を進めたが、オーストリアは同盟の外側にとどまった。この政治構造と経済圏のずれが、オーストリアを含むかどうかという統一構想の対立を生み出した。

  • ウィーン体制とドイツ連邦の成立
  • 民族意識と自由主義思想の広がり
  • 関税同盟による経済統合とオーストリアの孤立

フランクフルト国民議会と大ドイツ案

1848年の三月革命により、各地で自由主義的な運動が高まり、ドイツ全体の憲法と統一のあり方を討議する場としてフランクフルト国民議会が開かれた。ここで大ドイツ主義の立場に立つ議員は、オーストリア帝国のドイツ人居住地域を新国家に含めるべきだと主張した。しかしオーストリア政府は、帝国の多民族的領域を分割できないと拒否し、統一ドイツへの部分的参加を認めなかった。その結果、議会内部では大ドイツ案が行き詰まり、最終的にはプロイセン王を国家元首とする小ドイツ的な案が採択されたが、これも国王の拒否により実現しなかった。

プロイセン主導の統一と大ドイツ主義の挫折

1860年代になると、プロイセンの宰相ビスマルクが武力と外交を組み合わせた政策を進め、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立させた。この統一国家はオーストリアを含まない小ドイツ的な構想に基づくものであり、伝統的な大ドイツ主義はここでいったん挫折した。統一から締め出されたオーストリアは、ハンガリー貴族との妥協により二重帝国体制をとり、ドナウ地域の多民族帝国として存続した。他方、同じ時期にイタリアではガリバルディらの運動やヴェネツィア併合を経てイタリア王国が成立し、民族統一をめぐるヨーロッパ全体の再編が進行していた。

  1. 普墺戦争によるオーストリアのドイツ問題からの排除
  2. 1871年のドイツ帝国成立と小ドイツ主義の実現
  3. イタリア統一との並行的な民族国家形成

第1次世界大戦後の大ドイツ構想

第1次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、ドイツ系住民の多い「ドイツ=オーストリア」ではドイツ共和国との合併、いわゆるアンシュルスを求める動きが強まった。これは、かつての大ドイツ主義の再燃とみなされるが、ヴェルサイユ体制はその実現を禁止した。20世紀になると、この大ドイツ構想は人種主義的なパン=ゲルマン主義やナチズムと結びつけられ、1938年のアンシュルスにおいて過激な形で実行に移された。同時期、オーストリアからイタリアに帰属が移った南チロルや、ドイツ語・イタリア語が混在するトリエステなど、国境地帯でも民族帰属をめぐる対立が続き、イタリア側の未回収のイタリア問題やローマ教皇領占領などと複雑に絡み合った。

歴史的意義

大ドイツ主義は、単にドイツとオーストリアの関係をめぐる構想にとどまらず、「民族」とは何か、多民族帝国と民族国家のいずれを優先すべきかという近代ヨーロッパ共通の課題を映し出している。19世紀の自由主義的・文化的な大ドイツ案は、多民族国家の再編という穏健な構想も含んでいたが、20世紀には排他的で暴力的なパン=ゲルマン主義へと変質し、戦争と支配の正当化に利用された。この変化の過程を検討することは、ドイツやオーストリアだけでなく、イタリアや中東欧諸地域の民族問題、さらには現代の国民国家のあり方を理解するうえでも重要である。