小ドイツ主義
小ドイツ主義は、19世紀のドイツの統一をめぐる構想の一つであり、ハプスブルク家の支配するオーストリア帝国を統一国家から除外し、プロイセン王国を中心として民族国家を樹立しようとする考え方である。ナポレオン戦争後のウィーン体制のもとで分裂したドイツ世界を再編する諸構想のうち、最終的に1871年のドイツ帝国成立へとつながった潮流を示す概念として重要視される。
歴史的背景
1815年のウィーン会議後、ドイツ語圏は多数の君主国から成るドイツ連邦として再編され、覇権を競うオーストリア帝国とプロイセン王国が複雑な均衡を保っていた。19世紀前半に進んだ産業化と市民社会の成長により、関税障壁の撤廃や経済的統一を目指す動きが強まり、これがドイツ関税同盟の形成を通じてプロイセンの指導力を高めた。また、ロマン主義や民族主義思想の広がりは、言語と文化を共有する「ドイツ民族国家」の形成を求める世論を育て、小ドイツ主義が支持を得る土壌をつくった。
小ドイツ主義の基本構想
小ドイツ主義の核心は、ドイツ語圏であっても多民族帝国であるオーストリアを新国家から除外し、プロイセン主導で統一を達成しようとする点にある。オーストリアはハンガリーやチェコなど多様な民族を支配しており、その全領土を含めると「ドイツ民族国家」という理念が曖昧になると考えられた。また、カトリック勢力の強いオーストリアの政治文化は、プロテスタント色の濃い北ドイツ諸邦と調和しにくいとみなされ、政治的にも宗教的にもプロイセン中心の編成が合理的であると主張された。
特徴と主張のポイント
- オーストリアを統一構想から除外し、ドイツ連邦内の他の諸邦を再編する。
- 軍事力と官僚制で優位に立つプロイセン王国を指導的地位に置く。
- 経済的にはドイツ関税同盟を基盤とし、関税一体圏を政治的統一へと発展させる。
- 宗教対立を避け、プロテスタント諸邦を中心に安定した統一国家を構想する。
1848年革命とフランクフルト国民議会
1848年の三月革命により、ドイツ各地で自由主義運動と民族運動が高揚し、統一国家の憲法制定をめざすフランクフルト国民議会が開催された。ここでは、オーストリアを含むかどうかが最大の争点となり、多くの代議員が小ドイツ主義を支持して、オーストリアを除外した憲法草案を採択した。議会はプロイセン王にドイツ皇帝位を提案したが、王の拒否によりこの試みは挫折し、1848年革命自体も敗北に終わったものの、小ドイツ的な枠組みはその後も統一構想として生き残った。
ビスマルクによる小ドイツ的統一の実現
1860年代に登場したビスマルクは、武力と外交を組み合わせた「鉄血政策」によって小ドイツ主義を現実の戦略として実行した。1866年の普墺戦争でオーストリアを破った結果、ドイツ連邦は解体され、プロイセン主導の北ドイツ連邦が成立した。続く普仏戦争の勝利を受けて、南ドイツ諸邦もプロイセンのもとに合流し、1871年にヴェルサイユ宮でドイツ帝国が宣言されると、小ドイツ的な枠組みによる統一が完成したのである。
歴史的意義
小ドイツ主義は、分裂したドイツ世界を再編し、軍事力と官僚制に支えられた近代国家を形成する方向を決定づけた思想である。その結果成立したドイツ帝国は、急速な工業化と軍備拡張を背景にヨーロッパ列強の一角となり、国際政治の勢力均衡に大きな影響を与えた。他方で、オーストリアやイタリア、バルカン半島の民族問題は別個に残されることとなり、19世紀後半から20世紀前半にかけての国際情勢や戦争の要因の一つともなった点で、小ドイツ主義の歴史的帰結は長期的な視野から検討されている。