デンマーク戦争|シュレースヴィヒをめぐる戦争

デンマーク戦争

デンマーク戦争は、1864年にデンマーク王国とプロイセン王国・オーストリア帝国が衝突した戦争である。主戦場となったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をめぐる領土問題は、ドイツ民族運動とデンマークのナショナリズムが衝突した典型例であり、のちにビスマルクが推し進めたドイツの統一への第一歩と位置づけられる。この戦争は、ドイツ側からはしばしば「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」あるいは「第2次シュレスヴィヒ戦争」とも呼ばれ、1860年代の国際政治と民族問題を理解するうえで重要な事件である。

デンマーク戦争の背景

デンマーク戦争の背景には、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国の帰属をめぐる長期の対立があった。ホルシュタインはドイツ連邦に属し、住民の多くはドイツ語話者であったのに対し、シュレスヴィヒは形式上デンマーク王冠領であり、北部にはデンマーク語話者、南部にはドイツ語話者が混在していた。19世紀のナショナリズムの高まりのなかで、デンマーク側にはシュレスヴィヒを王国に編入しようとする動きが強まり、ドイツ側では両公国をドイツ民族国家に組み込もうとする要求が高まった。この対立は、1848年の革命期にも一度戦争を引き起こしており、問題は未解決のまま残されていた。

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題

1852年のロンドン議定書は、シュレスヴィヒとホルシュタインをデンマーク王と同一人物が統治するが、それぞれの法的地位を維持するという妥協案を示した。しかし1863年、デンマーク王クリスチャン9世がシュレスヴィヒを王国により強く編入する「11月憲法」を公布すると、これはロンドン議定書違反であるとしてドイツ連邦諸邦は反発した。ドイツ民族運動のなかでは、特にプロイセンを中心とする小ドイツ主義の立場から、ドイツ系住民の保護と領土のドイツ化が主張され、ナショナリズムと国際条約の問題が複雑に絡み合った。

プロイセンとオーストリアの出兵

この危機を利用したのが、プロイセン首相ビスマルクである。彼は、ドイツ連邦としてではなくプロイセンとオーストリアという2大国が共同で行動する形をとることで、プロイセンの主導権を強めようとした。1864年、プロイセンとオーストリア中心のドイツ構想を掲げるオーストリア帝国は共同軍を編成し、デンマーク領シュレスヴィヒへ侵攻した。ビスマルクは自らの鉄血政策を実践する場としてこの戦争を位置づけ、外交的孤立を避けつつ、迅速な軍事行動でデンマークを圧倒しようとした。

戦争の経過

  1. 1864年初頭、プロイセン・オーストリア連合軍はシュレスヴィヒに侵入し、デンマーク軍の防衛線を各地で突破した。ディッペル堡塁の戦いなどで連合軍が優勢に立つと、デンマーク側は海上封鎖などで対抗したが、陸戦の劣勢を覆すことはできなかった。

  2. 春から夏にかけて、連合軍はユトランド半島北部にまで進軍し、デンマーク本土への圧力を強めた。海軍力ではデンマークが勝っていたものの、決定的な勝利を得ることはできず、戦局は次第にデンマークに不利となっていった。

  3. ヨーロッパ列強は講和を仲介したが、イギリスなどは積極的な介入を避け、事実上プロイセンとオーストリアの軍事的成功を追認する姿勢をとった。こうしてデンマークは単独で講和を結ばざるを得ない状況に追い込まれた。

ウィーン条約とシュレスヴィヒ・ホルシュタインの行方

1864年のウィーン条約により、デンマークはシュレスヴィヒ・ホルシュタインおよびラウエンブルクの支配権をプロイセンとオーストリアに譲渡した。形式的には両大国の共同統治とされたが、実際にはこの「共同管理」がのちの普墺戦争の火種となる。1865年のガスタイン協定では、シュレスヴィヒをプロイセン、ホルシュタインをオーストリアが管理することとなり、両地はドイツ問題の中心的な争点へと変化したのである。

デンマーク戦争とドイツ統一への影響

デンマーク戦争は、軍事的には比較的小規模であったが、政治的影響は極めて大きかった。第1に、プロイセン軍の近代的装備と動員力が証明され、のちのドイツの鉄道網を活用した迅速な兵力集中の有効性が示された。第2に、ビスマルクは戦争を通じてプロイセンの国際的地位を高め、オーストリアとの間にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン管理問題という対立の種を意図的に残した。これが1866年の普墺戦争、さらに1870年の普仏戦争へと連なり、最終的なドイツ帝国の成立へとつながっていく。

ヨーロッパ国際秩序とデンマーク戦争

デンマーク戦争は、ウィーン体制期に形成されたヨーロッパ国際秩序の変質を象徴する出来事でもあった。列強協調による紛争抑制という発想は維持されつつも、実際には経済的結びつきを背景としたプロイセンの台頭とオーストリアの相対的衰退が進み、バランスは変化していた。列強がデンマークを十分に支援しなかったことは、小国の安全がもはや大国協調によって自動的に保証されないことを示していた。その意味で、この戦争はイタリア問題やヴェネツィア併合などと並び、19世紀後半の国民国家形成と国際秩序再編の重要な転換点と評価される。