ダンツィヒ|ポーランド回廊の自由市

ダンツィヒ

ダンツィヒは、現在のポーランド北部に位置し、今日ではガダンスクと呼ばれるバルト海沿岸の港湾都市である。中世以来、バルト海交易の要衝として発展し、ドイツ系とポーランド系の住民が混在する多民族都市として歴史に登場した。とくにダンツィヒは、第一次世界大戦後のダンツィヒ自由都市や、第二次世界大戦勃発の舞台として、ヨーロッパ国際政治史に大きな影響を与えた都市である。

地理と名称

ダンツィヒは、ヴィスワ川の河口近くに位置し、バルト海へ通じる水運と海運を結びつける地理的条件に恵まれていた。この地理的特性により、穀物や木材など東欧の産物を西ヨーロッパ市場へ運ぶ中継地として繁栄した。ドイツ語ではダンツィヒ、ポーランド語ではグダニスク(ガダンスク)と呼ばれ、名称の違いはこの地域におけるドイツ系とポーランド系住民の長い対立と共存の歴史を象徴している。

中世から近代までの歴史的背景

中世のダンツィヒは、北ドイツやバルト海沿岸諸都市によって構成されたハンザ同盟の有力都市として知られた。とくにドイツ系商人が大きな影響力を持ち、都市の自治や商業の自由が広く認められていた。その後、都市はポーランド王国やドイツ騎士団、プロイセン王国など周辺の強国の支配を受けながらも、港湾都市としての性格を保ち続けた。

近代に入ると、ドイツ統一の過程でダンツィヒはドイツ帝国領に組み込まれ、住民の多数派を占めるドイツ系市民が国家的な枠組みの中で優位な立場を占めた。一方で、周辺地域にはポーランド人も多く居住しており、民族的な対立の萌芽はこの時期から存在していたとされる。

ヴェルサイユ体制と自由都市ダンツィヒ

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約およびヴェルサイユ体制のもとでヨーロッパの国境は大きく再編された。新たに独立を回復したポーランドには海への出口が必要とされ、そのためにいわゆる「ポーランド回廊」が設定される一方、港湾都市ダンツィヒはドイツから切り離され、「自由都市ダンツィヒ」として特別な地位を与えられた。

自由都市ダンツィヒは、形式上は独立した都市国家であり、その対外関係と安全保障は国際連盟の保護下に置かれた。ポーランドはダンツィヒの関税同盟や港湾利用、鉄道・郵便などで優越的な権利を認められたが、都市の住民の多くはドイツ系であり、ポーランドとの利害対立が政治的緊張を生み出した。

自由都市の政治体制と社会

自由都市ダンツィヒには独自の憲法と議会が存在し、市民による自治が行われた。しかし、議会ではドイツ系政党が多数を占め、ポーランドとの協力に消極的であった。さらに経済面では、周辺情勢の不安定さや世界恐慌の影響により失業と不満が高まり、極端な民族主義勢力が台頭しやすい条件が整えられていった。

ナチスの台頭と第二次世界大戦

ナチスドイツで政権を握ると、ドイツ民族の統合と領土回復を掲げる宣伝はダンツィヒのドイツ系住民にも強い影響を与えた。自由都市の議会でもナチ党系勢力が勢力を拡大し、ポーランドとの対立は激化した。ドイツ政府はダンツィヒの「ドイツへの帰属」を主張し、ポーランド回廊問題とともに、国際政治上の大きな争点となっていく。

そしてダンツィヒは、第二次世界大戦の引き金となる事件の舞台としても知られる。1939年9月、ナチス・ドイツ軍はダンツィヒ近郊のポーランド軍要塞ヴェステルプラッテを攻撃し、これがドイツのポーランド侵攻の開始とされる。ポーランドが攻撃を受けると、英仏はドイツに宣戦布告し、ヨーロッパは全面戦争に突入した。

戦後のガダンスクと記憶

戦争末期、ダンツィヒは激しい戦闘と空襲により大きな被害を受け、多くの歴史的建造物が破壊された。戦後、都市はポーランド領とされ、ドイツ系住民の多くは追放・移住を余儀なくされた。都市名もポーランド語のグダニスク(ガダンスク)を公式名称とし、街並みはポーランド当局によって歴史的外観を意識した再建が進められた。

今日のガダンスクは、第二次世界大戦の記憶だけでなく、冷戦期における連帯(ソリダルノシチ)運動発祥の地としても知られる。しかしヨーロッパ国際政治の観点から見れば、バルト海の港湾都市ダンツィヒは、とりわけヴェルサイユ条約ヴェルサイユ体制のもとで形成された国際秩序の矛盾、そして民族問題と領土問題が結びついて第二次世界大戦へとつながっていった象徴的な空間として位置づけられている。