タングート|西夏を築いたチベット=ビルマ語派

タングート

タングートは、中世ユーラシア西北部で活躍したチベット・ビルマ系の民族であり、11世紀に西夏(1038-1227)を建国したことで知られる。中国史料では「党項」と記され、王統は嵬名(韋名)氏を本姓としつつ、唐以来の冊封秩序の中で李姓を帯びた。黄河上中流域(現在の寧夏・甘粛一帯)に定着し、農耕・牧畜・隊商交易を複合させた社会経済を展開した。漢文官僚制を摂取しつつ、草原由来の軍事組織を保持する柔構造をとり、周辺の、のちのモンゴル帝国と対峙・交渉を重ねた点に特色がある。

起源と名称

タングート(Tangut)の語は、周辺諸民族が用いた外名に由来し、中国史料の「党項」は内部名と結びつく。8~10世紀にかけて羌諸集団の一系がオルドス・河西走廊方面へ移動・集住し、黄河の灌漑地帯を押さえることで勢力を拡大した。部族連合の上に王統が成立し、本姓嵬名氏が支配層を構成した。彼らは草原とオアシスを結ぶ交通の結節に位置し、軍事と交易の双方で周辺政権と関わることにより、国家形成の基盤を築いた。

西夏の建国と制度

11世紀前半、李元昊(景宗)が即位して皇帝号を称し、西夏を建国した。ここでタングートは漢文化の制度を体系的に摂取し、年号・官制・律令を整備した一方、遊牧的な軍制と貴族的合議を残存させることで、二重の政治構造を作り出した(しばしば二重統治体制と評される)。国境の要衝には屯田・堡塁を配し、河套の灌漑開発を進めて恒常的な租税基盤を確保した。外交では朝貢・互市と軍事圧力を併用し、冊封秩序と実力政治のはざまで自立性を保った。

社会と経済

タングート社会は、農耕民・牧民・都市住民が分業的に結合し、税と労役が身分・地域によって差配された。黄河の堤防・水利網を基盤に小麦・粟などの穀作が行われ、牧野では馬・羊が飼養された。隊商はシルクロードの支路を利用して茶・馬・絹・皮革を交換し、西夏都城興慶府や甘粛の要地は交易と軍事の拠点となった。国家は塩・茶の専売や市舶・関市の統制を通じて財政を支え、辺境の砦では軍屯が生産補完を担った。

文字・言語・宗教文化

タングートは1036年頃、野利仁栄の主導で独自のタングート文字(西夏文字)を制定した。表語・表音的要素を複合する方形字で、膨大な字数と義符・声符の組み合わせによって語彙を表記した。仏典・律令・辞書・韻書が大量に編纂・翻訳され、仏教は国家イデオロギーとして重視された。密教・禅・戒律学が受容され、経巻は官営スクリプトリウムで製作された。漢文と自民族語の二言語運用は、行政と学術の双方に機能し、文化的独自性と普遍帝国の制度を橋渡しした。

宋・遼・金・モンゴルとの関係

タングート政権は、南に、東北に、のち西北・華北に台頭すると、国境紛争と条約による均衡を追求した。互市は武力衝突の緩衝として機能し、金・銀・絹・茶・馬の交換が平和維持の経済的基盤となった。しかし13世紀初頭、モンゴル帝国の西進は均衡を崩し、複数回の侵攻の末、西夏は1227年に滅亡した。これにより黄河上流の戦略地政は再編され、オアシス・草原・農耕地帯の力学はモンゴル的世界秩序へ包摂された。

滅亡後の影響と後裔

西夏滅亡後も、タングート系の人々は甘粛・青海の一部で存続し、軍事・交易・宗教のネットワークに参与した。西夏文献は黒水城などの遺跡から大量に出土し、語彙・韻書・法制史の研究資源を提供している。漢語・チベット語・ウイグル語との接触は文書様式にも刻印を残し、ユーラシア内陸における多言語的統治の在り方を示す歴史例となった。近代以降の学術は写本群と碑文に基づき、国制・法制・仏教受容の実相を復原してきた。

補足:タングート文字の構造的特徴

  • 総字数は6000字以上に及び、語根・派生の体系が厳密である。
  • 義符と声符を組み合わせて造字し、同音・近義の整理に韻書が活用された。
  • 仏典翻訳に適合する語形成が工夫され、専門語彙の生産性が高い。
  • 官製字書・字典が行政文書の標準化を支え、教育・試験制度にも用いられた。

史料と研究の進展

黒水城文書群や碑刻、漢文史書、イスラーム系地理書がタングート研究の基盤である。文献の多言語性は相互参照を可能にし、政治史のみならず経済・法制・宗教儀礼の復元を促してきた。考古学は城郭構造・仏教寺院・写本保存の実態を明らかにし、歴史言語学は音韻・語彙・文法の系統的位置を精査した。こうした成果は、ユーラシア内陸世界における国家形成の多様性を理解する上で決定的であり、と連動する比較史の視座を提供している。