ズールー戦争
ズールー戦争は、1879年に南部アフリカで起こったイギリス帝国とズールー王国との武力衝突である。英語ではAnglo-Zulu Warと呼ばれ、優れた軍事力を誇ったズールー人の抵抗と、大英帝国の産業力と兵站力が正面からぶつかった戦争として知られる。ナタール植民地を拠点とするイギリス当局は、安全保障と領土拡大の名のもとにズールー王国の解体を目指し、最終的にズールー社会の政治秩序を崩壊させた。この戦争は、南部アフリカにおけるイギリス支配の転換点であると同時に、19世紀後半の帝国主義とアフリカ分割の文脈のなかで理解されるべき出来事である。
南部アフリカ情勢と発生の背景
19世紀前半、ケープ植民地から内陸へと移動したボーア人・アフリカーナーは、大移動として知られるグレート=トレックを通じて内陸各地に共和国を建設した。一方、イギリスはインド航路の要衝として南部アフリカの戦略的価値を高く評価し、ケープとイギリス領ナタールを足掛かりに勢力を拡大していった。ズールー王国は、こうした白人勢力の進出に対抗しうる軍事国家として成立していたが、その存在は植民地当局にとって潜在的脅威とみなされた。イギリス高等弁務官バートル・フレールは地域の連邦化計画を推し進めるなかで、ズールー王国の軍事力を解体する必要があると判断し、意図的に強硬な最後通牒を突きつけたことがズールー戦争の直接的な発端となった。
ズールー王国の成立と軍事制度
ズールー王国は19世紀初頭、指導者シャカの下で周辺諸部族を統合する形で成立した。王は年齢集団ごとに男性を編成した常備軍制度を整え、槍と盾を主体とする密集突撃戦術を発展させた。とくに短槍イクルワと牛の角陣形と呼ばれる包囲戦術は、白人勢力にとって大きな脅威であった。シャカの後継者たちの時代になると、銃火器の導入が遅れたものの、兵士の規律と機動力は依然として高く、周辺のアフリカ諸勢力だけでなく、白人開拓民に対しても抑止力を持ち続けた。こうした軍事国家としての性格が、イギリス当局によるズールー王国包囲と、最終的な軍事的衝突を招く要因となったのである。
開戦とイサンドルワナの戦い
1879年1月、イギリス軍は複数の侵攻縦隊を編成し、ズールー領内へ進軍した。当初、近代兵器を備えたイギリス軍は容易な勝利を想定していたが、イサンドルワナの戦いで予想外の大敗北を喫する。十分な防御陣地を築かないまま野営していた英軍本隊は、山裾から接近したズールー軍の大規模な包囲攻撃を受け、銃火器の優位を生かしきれず壊滅した。この戦闘はヨーロッパ列強がアフリカの先住民勢力に対して被った数少ない大敗として記憶され、ズールー戦争の象徴的な出来事となった。
ロークス・ドリフトの防衛戦
同じ日に行われたロークス・ドリフトの戦闘では、わずかなイギリス守備隊がズールー軍の攻撃を辛うじて撃退した。補給基地兼宿営地であったこの地点は、土嚢や物資箱を積み上げた急造防御陣地に守られており、近代的な連発銃と限られた弾薬を駆使した防戦が行われた。イサンドルワナでの敗北の直後に伝えられたこの防衛戦の勝利は、本国および植民地世論において、帝国の威信回復の象徴として大きく宣伝された。
第二次侵攻とウルンディの戦い
イサンドルワナの敗報はロンドン政府に衝撃を与え、大規模な増援部隊が派遣された。補給線と砲兵火力を整えたイギリス軍は、再侵攻を開始して慎重な陣地戦を展開し、ズールー軍の機動戦術を封じ込めていった。1879年7月のウルンディの戦いでは、方形の歩兵陣とガトリング砲・野砲による集中砲火がズールー軍を圧倒し、王都周辺は焼き払われた。ズールー王セッチワヨは捕縛・退位させられ、王国の中枢は崩壊した。この段階でズールー戦争の軍事的決着はつき、ズールー王国は事実上イギリスの支配下に置かれることになる。
戦後処理と南部アフリカ史への影響
戦後、イギリス当局はズールー領を複数の小首長領に分割し、ズールー王権の再結集を防ごうとした。しかし分割統治は内紛と不安定を招き、結果としてイギリスによる直接支配を正当化する口実となった。やがてズールーの土地はナタール植民地へ編入され、白人入植と農園経営の拡大によって先住民社会の土地所有構造は大きく変化した。南部アフリカ全体で見ると、ズールー戦争はイギリスがアフリカ内部へ軍事介入を進める前段階として位置づけられ、その後の第1次・第2次ボーア戦争と連続する過程の一部であった。ズールーの抵抗は、ケープからカイロへ至るアフリカ縦断政策やセシル=ローズの影響下で形成されたローデシア支配とも結びつき、帝国主義時代の南部アフリカ秩序の形成に深く関わっている。さらに、ボーア人やアフリカーナーが築いた共和国とイギリス帝国の対立にも影を落とし、南アフリカ連邦成立と人種隔離政策へと続く長期的な歴史の一環として、ズールー戦争は重要な意味を持ち続けている。