ボーア人
ボーア人は、南アフリカに移住したオランダ系を中心とするヨーロッパ系植民者の子孫であり、のちにアフリカーナーとも呼ばれる人びとである。彼らはケープ植民地に入植した農民層から出発し、独自の言語であるアフリカーンス語とカルヴァン派プロテスタントの信仰を軸に、独自の共同体と政治体制を築き上げた。イギリス帝国と対立しながらボーア人共和国を建設し、やがてボーア戦争を経て南アフリカ連邦の形成に深くかかわった点で、近代南アフリカ史においてきわめて重要な役割を果たした集団である。
起源と民族的背景
ボーア人の起源は、17世紀後半からケープ植民地に移住したオランダ東インド会社の入植者にさかのぼる。彼らにはドイツ人やフランス系ユグノー教徒も加わり、ヨーロッパ北西部起源の混合的な出自をもっていた。現地ではオランダ語を基盤とするアフリカーンス語が形成され、カルヴァン派プロテスタントの厳格な信仰と家父長制的な家族観が共同体の精神的基盤となった。こうしてボーア人は、ヨーロッパの文化を受け継ぎつつ、アフリカの環境のなかで独自の民族意識を育てていった。
ケープ植民地と農牧社会
ケープ植民地の内陸部では、広大な土地を利用した牧畜と自給的な農業が発達し、移動性の高い農民「トレック・ブーア」が現れた。彼らボーア人農民は、馬と銃を用いた「コマンドー」と呼ばれる自衛組織をもち、部族社会を営む黒人諸集団と、時に交易し、時に武力衝突を繰り返した。ケープがやがてイギリスの支配下に入ると、英語行政や法律制度の導入が進み、奴隷制廃止などの改革は、農場経営や社会秩序に大きな影響を及ぼし、伝統的なボーア人社会の不満を高めていった。
グレート・トレックと内陸への移動
19世紀前半、イギリスによる奴隷解放政策や英語化などに反発したボーア人の一部は、ケープ植民地から内陸へ移動する「グレート・トレック」を開始した。幌馬車隊で北東へ進んだ彼らは、ズールー王国などのアフリカ諸勢力と衝突しながら、ナタールやオレンジ川流域、トランスヴァール高原などに新たな定住地を構えた。この移動は、イギリス支配から距離をとり、独自の政治共同体を建設する試みであり、後のボーア人共和国成立の出発点となった。
ボーア共和国の形成と社会構造
グレート・トレックののち、内陸部ではオレンジ自由国と南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)というボーア人政権が成立した。そこでは、土地を所有する白人男性市民が政治参加権をもち、小規模農民と牧畜民を中心とした共和国が運営された。一方で、黒人住民やカラードと呼ばれた混血住民は、土地占有や政治参加の面で厳しい制限を受け、差別的な秩序が形成された。支配層であるボーア人は、宗教的価値観と独立心を強調し、共同体の結束を保とうとした。
- アフリカーンス語を日常言語とする白人農民層であった。
- 共和政のもとで自治と独立を重んじる政治文化を育てた。
- 黒人住民に対する支配と差別を前提とした社会秩序を維持した。
資源発見とイギリス帝国との対立
19世紀後半、キンバリー周辺でダイヤモンドが、さらにウィットウォーターズランドで金鉱が発見されると、南アフリカは世界資本主義の注目を集めた。イギリスは戦略的・経済的観点から地域支配を強化しようとし、金鉱地を抱えるトランスヴァール共和国への圧力を高めた。鉱山に流入した英語系移民「ユイトランダー」の扱いをめぐり、イギリスとボーア人政権の対立は激化し、地域は武力衝突の危機に向かっていった。
ボーア戦争と敗北
1880~81年の第1次ボーア戦争では、ボーア人はゲリラ戦術によってイギリス軍に勝利し、南アフリカ共和国の独立を維持した。しかし1899年に始まる第2次ボーア戦争では、物量に勝るイギリス軍との長期戦のなかで、焦土作戦や民間人収容所政策がとられ、多くのボーア人市民が犠牲となった。1902年の講和によりボーア共和国はイギリスの支配下に入り、政治的独立は失われたが、彼らの言語と宗教、民族意識はなお強く保たれた。
南アフリカ連邦とアフリカーナー・ナショナリズム
1910年にはケープ、ナタール、オレンジ自由州、トランスヴァールが統合され、南アフリカ連邦が成立した。ここでボーア人、すなわちアフリカーナーの指導者たちは、英語系住民と競合しながらも政界で大きな影響力を持つようになり、アフリカーナー・ナショナリズムが高揚していった。やがて人種隔離政策アパルトヘイトを支える政治勢力の中核を形成し、20世紀の南アフリカ政治に深く関与していくことになる。このようにボーア人は、植民地時代の入植民から出発し、独自の民族意識と国家観を発展させた存在として、南アフリカ史を理解するうえで欠かせない集団である。