シュマルカルデン同盟|宗教改革期のルター派諸侯連合結成

シュマルカルデン同盟

シュマルカルデン同盟は、1531年にテューリンゲンの小都市シュマルカルデンで結成された、ルター派諸侯と帝国都市の防衛的同盟である。目的は、神聖ローマ帝国における信仰と領邦権の防衛であり、皇帝カール5世による宗教一体化の圧力、とりわけ1521年のヴォルムス帝国議会後の取締りに対抗した。中心はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップで、帝国都市ストラスブールやウルムなども加わった。同盟は軍事・財政の枠組みを整え、1546–1547年のいわゆるシュマルカルデン戦争で皇帝軍と対峙したのち解体に追い込まれたが、1555年のアウクスブルクの和議へと至る政治過程に決定的影響を与え、宗教改革の制度化を方向づけた点に歴史的意義がある。

形成の背景

16世紀前半、ルターの教説拡大は帝国内の信仰対立を激化させた。皇帝は帝国議会・勅令を通じて統一を図ったが、領邦主権を自覚し始めた諸侯や都市は独自の教会制度と司法・課税権を守ろうとした。こうしてシュマルカルデン同盟は、信仰だけでなく領邦の法的自立を守る集団安全保障として構想されたのである。結成は、帝国政治における「諸侯連合」という伝統的手段を宗教問題に適用した試みで、帝国秩序と宗教改革の緊張を制度的に可視化した。

組織と加盟勢力

同盟は軍事出兵枠と財政分担を明確化し、常備の会合で作戦・外交方針を決めた。主導したのはザクセンとヘッセンで、北・中部ドイツの領邦と帝国都市がこれに続いた。神学面では1536年の「ヴィッテンベルク協約」、1537年の「シュマルカルデン信条」が同盟の信仰的輪郭を与え、政治と神学が相互に補強する枠組みが整った。実務は、徴兵・傭兵雇用、火器調達、要塞維持、軍資金の期別拠出など、近世的軍事財政国家の要素を取り込んだ運用で支えられた。

外交と戦略

同盟は対皇帝の均衡を図るため、ヴァロワ朝フランスや北欧勢力との接触を進めた。皇帝側が対外戦争に忙殺される局面では圧力を緩め、帝国内では講和・停戦を駆使して地歩を固めるという「時間を稼ぐ」戦略を採った。これによりルター派教会の整備と教育・行政の再編が進み、宗教は領邦統治の枠組みに深く根づいていった。こうした政策は、のちの「領邦教会制」として定着し、プロテスタント側の制度的基盤を形成した。

シュマルカルデン戦争(1546–1547)

1540年代半ば、対外戦争の一段落を受けて皇帝は帝国内の宗教問題に本格対処を開始し、同盟との全面衝突に至った。緒戦で同盟軍は優位を保てず、1547年のミュールベルク会戦で大敗、指導者の一角が捕囚となり、ザクセン選帝侯位も移動する事態となった。これによりシュマルカルデン同盟は事実上解体し、皇帝主導の再編が進む。しかし同盟が築いた諸邦の制度と民衆の信仰は容易に逆転せず、軍事的敗北と制度的持続という二重性が以後の政治交渉の前提となった。

アウクスブルク暫定から和議へ

戦後、皇帝は信仰統一の暫定措置として“Augsburg Interim”を発したが、各地で反発が強まり、反皇帝連合の再編と政治的離反が進行した。1552年のパッサウ和約は武力・交渉の折衷としてルター派に法的保護を与え、1555年のアウクスブルクの和議で「cuius regio, eius religio(領主の宗教が領内の宗教)」原則が承認される。ここに至る道程で、シュマルカルデン同盟が提示した集団防衛・制度構築の経験は、帝国内の多元的秩序を認める政治妥協の実質的土台となった。

歴史的意義と位置づけ

シュマルカルデン同盟は、単なる軍事同盟にとどまらず、宗教・法・財政・外交を統合して領邦主権の自立を体現した先駆的枠組みであった。敗北という結末にもかかわらず、その制度遺産は帝国内の宗教的複数性を恒久化させ、やがて長期的には帝国秩序の再定義と近世国家形成に波及する。帝国の多極性が17世紀の危機、とりわけ三十年戦争の背景に連なることを踏まえると、同盟は16世紀ドイツの宗教政治が孕んだ可能性と限界を映し出す鏡であった。