サード朝|オスマンと渡り合う北西アフリカ

サード朝

サード朝は、16世紀から17世紀にかけてモロッコを統治した王朝である。通例「サアード朝」とも記され、預言者ムハンマドの子孫(シャリーフ)を称して宗教的正統性を打ち出しつつ、ワッタース朝を打倒してマラケシュを中心に統一を進めた。アフマド・アル=マンスール(在位1578–1603)期に最盛を迎え、1578年のアルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍を撃破し、1591年にはジュダル・パシャを派遣してニジェール上流域へ遠征、ソンガイ王国を破ってトンブクトゥとガオを押さえた。サハラ交易の金・岩塩ルートを掌握し、砂糖産業や地中海・大西洋交易を通じて莫大な収入を得た一方、対外的にはオスマン帝国やイベリア諸国と拮抗し、内政ではマフゼン(王権機構)の整備と学者・スーフィー勢力との均衡を図った。だがマンスール没後は継承争いで分裂・衰退し、1659年に瓦解した。

成立と系譜

サード朝の祖は南モロッコ(スース地方)に根を持つシャリーフ系の集団で、ポルトガル勢力が大西洋岸に築いた要塞に対抗する「ジハード」の旗印を掲げて勢力を伸ばした。16世紀半ば、ムハンマド・シェイクがフェズのワッタース朝を打倒して王権を掌握し、マラケシュに宮廷を構えた。宗教的権威(シャリーフ位)と軍事力(火器・騎兵)を結合させた点に、この王朝の特徴があった。

アフマド・アル=マンスールの治世

行政・財政の改革

最盛期を築いたアフマド・アル=マンスールは、マフゼン(宰相・徴税・近衛など王権中枢)を拡充し、砂糖産業の保護や関税・関門収入の再編で財政を強化した。宮廷では壮麗なバディ宮殿を造営し、外交面ではイベリア諸国やイングランドとの交渉を巧みに操って自立を維持した。フェズとマラケシュの学者層(ウラマー)を庇護して法学・神学を振興したことも、王権の正統性を支えた。

サハラ以南への遠征

1591年、黒人ユダヤ人出身の傭兵指揮官ジュダル・パシャが率いる火器部隊がニジェール上流域へ進軍し、トンディビの戦いでソンガイ王国を撃破した。こうしてトンブクトゥ・ガオ・ジャネの諸都市とタガーザの岩塩鉱を事実上掌握し、金・奴隷・岩塩の流れに関与した。現地にはパシャを頂点とする駐在体制が敷かれ、学術都市トンブクトゥの知的資源もモロッコに結び付けられた。ただし広域支配の維持は困難で、輸送・補給・治安の負担が長期的には王朝の弱点となった。

対外関係と軍事

対外的にサード朝は二正面の圧力に直面した。東方ではオスマン帝国がアルジェリアを拠点にマグリブへ影響力を伸ばし、西方ではポルトガルスペインが大西洋岸に拠点を築いた。1578年のアルカセル・キビールの戦いでポルトガル王セバスティアンが戦死すると、王朝の軍事的威信は飛躍的に高まり、地中海世界におけるモロッコの自立性が確立した。火器運用と騎兵機動の複合戦術が奏功した点は、同時代の「火薬帝国」との共通項でもあった。

宗教・社会と文化

サード朝はシャリーフ王権として宗教的権威を前面に出し、マリキ法学を学ぶウラマー層の支持を取り付けた。スーフィー教団は地方社会の秩序に役割を果たし、王権は彼らを懐柔・統制することで地方支配を補強した。文化面ではサアード廟(いわゆるサアード朝の墳墓)やバディ宮などが造営され、繊細なスタッコ装飾・彩釉タイルが花開いた。これらはマグリブ美術の到達点として知られる。

経済・交易の展開

王朝の富はサハラ交易と大西洋交易の結節に由来した。岩塩・金に加え、サトウキビ栽培と製糖業が輸出収入を支え、地中海商人や英蘭勢との取引が広がった。サハラ以南のネットワークは、より古いマリ王国ガーナ王国の交易伝統を継承しつつ再編され、イスラーム的都市文化の影響は一段と強まった。

年表(抄)

  1. 1554年:ムハンマド・シェイク、ワッタース朝を破りフェズを制圧
  2. 1578年:アルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍を撃破
  3. 1591年:ジュダル・パシャ、ニジェール上流域で遠征(トンディビの戦い)
  4. 1603年:アフマド・アル=マンスール没、王位継承争いが激化
  5. 1659年:王朝瓦解、のちにアラウィー朝が台頭

衰退と滅亡

アフマド・アル=マンスール没後、王子たちの抗争で王国はフェズ系・マラケシュ系に分裂し、地方勢力や宗教勢力も台頭した。サハラの駐留軍は補給難と反乱で弱体化し、交易利得は縮小する。こうしてサード朝は1659年に崩壊し、のちにアラウィー朝がモロッコ統一を回復して近世の秩序を築いた。サハラと地中海・大西洋を結ぶ交易国家としての遺産は、マグリブと西アフリカの歴史を理解する上で不可欠である。