クロンシュタット反乱
クロンシュタット反乱は、1921年3月にペトログラード近郊の軍港クロンシュタット要塞で起こった水兵・兵士・労働者による武装蜂起である。1917年のロシア革命以来、革命の先鋒とみなされてきたクロンシュタットの水兵が、ボリシェヴィキ政権に対して「ソヴィエトから政党の支配を排すること」を掲げて蜂起した点に特徴がある。この反乱は、内戦と戦時共産主義のもとで疲弊した社会の不満が頂点に達した事件であり、その鎮圧はのちのネップ導入や一党独裁の強化と密接に結びつく重大な転機と評価されている。
発生の背景
第一次世界大戦とロシア内戦の長期化のなかで、ボリシェヴィキ政権は食糧徴発や工業国有化など強権的な戦時共産主義政策を実施し、農民や都市労働者の不満は深刻化していた。ペトログラードでは1921年初頭から食糧不足と賃金の低さに抗議するストライキが相次ぎ、治安機関チェカによる弾圧が強まった。こうした状況のなか、1917年10月の武装蜂起でレーニンらボリシェヴィキを支持し、「革命的水兵」と称されたクロンシュタット守備隊も、政府の官僚化や特権化に不満を募らせていったのである。
反乱の勃発と要求
1921年3月1日、ペトログラードからの代表団を迎えたクロンシュタットの大集会で、水兵・兵士・労働者は政権批判の決議を採択し、これがクロンシュタット反乱の出発点となった。彼らはソヴィエト権力そのものを否定するのではなく、「ボリシェヴィキなきソヴィエト」を掲げ、革命の原点への回帰を主張したとされる。決議の内容は多岐にわたるが、核心となる要求は次のように整理できる。
- 秘密投票による自由なソヴィエト再選挙の実施
- 労働者・農民・アナキスト・左翼社会主義諸党に対する言論・出版・集会の自由
- 政治犯および労働運動・農民運動の参加者の釈放
- 農民に対する食糧徴発の廃止と、自作農としての土地利用の自由
これらの要求は、1917年の革命時に掲げられた「パン・平和・土地」のスローガンを想起させるものであり、ボリシェヴィキ政権が掲げた理想と現実との乖離を告発する性格をもっていた。
ボリシェヴィキ政権の対応と鎮圧
ボリシェヴィキ政権は、クロンシュタットの蜂起をただちに「白軍と亡命者による反革命陰謀」と断定し、譲歩ではなく武力鎮圧の方針を選んだ。革命軍事人民委員として軍を統括していたトロツキーの指導のもと、ペトログラード周辺に集結した赤軍部隊は、凍結したフィンランド湾の氷上を進撃路として要塞に総攻撃を加えた。厳冬と砲火のなかで激しい戦闘が行われ、多数の死傷者を出した末、3月半ばまでに反乱側は制圧された。生き残った水兵や市民の一部は、氷上を徒歩で渡りフィンランドへと脱出したが、多くは処刑や強制収容所送りとなったと伝えられる。
ネップ導入と歴史的評価
クロンシュタットにおける蜂起とその鎮圧は、ボリシェヴィキ指導部にとって大きな衝撃であり、レーニンはこの事件を政権に対する「危険な警鐘」とみなしたといわれる。ちょうど同じ1921年3月に開催された党第10回大会では、食糧徴発に代えて穀物税を導入し、市場取引を一定程度認める新経済政策(ネップ)へ転換する方針が決定された。こうしてネップとソ連の成立へとつながる路線変更が図られる一方で、党内では分派活動が禁止され、反対派は厳しく抑圧された。クロンシュタットの敗北は、ソヴィエト政権が一党支配と官僚機構を強化しながら、内戦期から平時の体制へ移行していく転換点として位置づけられている。また後世には、この事件をめぐり、「労働者・農民の自己解放」を掲げた革命の理念と、党国家による統制の矛盾を象徴する出来事として多様な議論が続いている。