ガリポリの戦い|英仏軍上陸作戦の失敗

ガリポリの戦い

ガリポリの戦いは、第一次世界大戦期の1915年から1916年にかけてオスマン帝国領ガリポリ半島で行われた大規模な上陸作戦である。イギリスやフランスを中心とする連合国が、ダーダネルス海峡を突破してロシアへの海上補給路を開くことを目的として作戦を立案し、これに対してオスマン帝国軍が激しい防衛戦を展開した結果、作戦は膠着と大量の犠牲を生んだ末に連合国側の撤退に終わった。この戦いは、第一次世界大戦全体の行方だけでなく、トルコ共和国の成立やオーストラリア・ニュージーランドの国家意識にも大きな影響を与えたことで知られる。

戦略的背景とダーダネルス海峡の重要性

ガリポリの戦いの背景には、黒海に面するロシアがドイツ軍との東部戦線で苦戦し、海上補給路の確保を切望していた事情があった。地中海と黒海を結ぶダーダネルス海峡は、オスマン帝国が支配する要衝であり、ここを突破できれば協商国の一員であるロシアを支援しつつ、オスマン帝国を戦争から脱落させることができると期待された。イギリス海相チャーチルらは、この海峡攻撃を通じて膠着した西部戦線とは異なる「別の戦場」を開こうと考え、ガリポリ半島攻略作戦が構想されたのである。

連合国の作戦計画と参加戦力

連合国は当初、主力戦艦による艦砲射撃でダーダネルス海峡の沿岸砲台を沈黙させ、そのまま艦隊を通過させる構想を立てた。しかし海峡には機雷が敷設され、オスマン帝国側の抵抗も予想以上に強く、海軍単独での突破は困難となった。このため、ガリポリ半島に歩兵を上陸させ要塞と高地を制圧する上陸作戦が追加された。作戦にはイギリス本国軍やフランス軍に加え、オーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)も投入され、帝国各地から兵力が動員された点で、世界的規模の同盟国対連合国の戦いを象徴する作戦となった。

上陸作戦と塹壕戦への移行

1915年4月、連合国軍はガリポリ半島南端のケープ・ヘリスや北側のANZACコーブなど複数地点に上陸したが、険しい地形と準備の整ったオスマン帝国軍の防御に直面した。予定していた迅速な突破は実現せず、部隊は海岸付近の狭い橋頭堡に押し込められたまま、次第に塹壕を掘って対峙する形に変わっていった。酷暑と水不足、衛生状態の悪さから伝染病も広まり、多くの兵士が戦闘のみならず病気によって命を落とした。こうしてガリポリの戦いは、西欧のマルヌの戦い東部戦線と同様に、消耗戦としての性格を強めていったのである。

オスマン帝国側の防衛とムスタファ・ケマル

オスマン帝国軍は、ドイツ人将軍リマン・フォン・ザンダースの指揮のもとで防衛体制を整えつつ、前線ではトルコ人将校たちが兵士を鼓舞した。その中でも後にトルコ共和国初代大統領となるムスタファ・ケマル(アタテュルク)は、要地チュヌク・バイルやコンカルといった高地で連合国軍の攻勢を食い止めたことで名を高めた。彼の指揮のもとで展開された反撃は、ガリポリにおけるオスマン帝国軍の勝利を象徴する出来事として記憶されている。こうした経験は、帝国崩壊後のトルコ民族運動にもつながり、オスマン帝国の第一次世界大戦参戦を論じる際にはオスマン帝国の第一次世界大戦参戦とともに重要な位置を占める。

撤退と作戦の失敗

連合国軍は度重なる攻勢にもかかわらず決定的な突破口を開くことができず、戦線は1915年夏以降も膠着したまま推移した。戦況の悪化や他戦線への兵力需要を背景に、ロンドンでは作戦続行の意義が疑問視されるようになり、ついに同年末から1916年初頭にかけて計画的な撤退が実施された。撤退そのものは周到に準備されたため比較的損害は少なかったが、総じてガリポリの戦いは連合国側にとって大きな人的損失と政治的打撃をもたらした。作戦の失敗は、発案に深く関わった指導者層にも影響を与え、イギリス政界ではチャーチルの一時的な失脚を招く要因ともなった。

歴史的意義と記憶

ガリポリの戦いは、軍事技術や作戦術の面では、大規模な強襲上陸作戦の困難さを示した事例として後世の軍事史でしばしば言及される。また、オスマン帝国側にとっては敗戦の続く戦争の中で数少ない勝利のひとつであり、後のトルコ共和国では建国神話と結びついた重要な記憶となった。他方、ANZAC兵士を多く失ったオーストラリアやニュージーランドでは、4月25日が「ANZACデー」として追悼と国民的団結の日となり、国民国家としての自己認識を形成する契機ともなった。こうした政治的・社会的意味は、ボスニア危機やボスニアの問題、シュリーフェン計画、イタリアの動向を扱うイタリアの第一次世界大戦参戦、さらには日本の参戦といった他の戦域・参戦国の歴史と合わせて理解することで、第一次世界大戦期の世界秩序変動をより立体的に捉える手がかりとなる。