カヴェニャック|六月蜂起を鎮圧した軍人

カヴェニャック

カヴェニャックは、19世紀フランスの軍人・政治家であり、1848年の二月革命後に成立した第二共和政のもとで重要な役割を果たした人物である。とくに1848年6月に起こったパリの六月蜂起を武力で鎮圧したことで知られ、社会主義勢力からは弾圧者として、保守・共和派からは秩序を回復した将軍として記憶されている。短期間ながら行政権を掌握し、大統領選挙でルイ=ナポレオンと対立したことから、革命期フランスにおける「秩序派共和主義」を代表する存在とみなされる。

出自と青年期

カヴェニャック(ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック)は1802年、パリに生まれた。父はフランス革命期に急進的共和主義者として活動したジャン=バティスト・カヴェニャックであり、この家庭環境のもとでカヴェニャックも立憲主義と共和主義を重んじる政治的空気を受け継いだ。復古王政や七月王政のもとで貴族的特権や保守的勢力が復活していくなか、彼は軍人として身を立てつつ、王政に批判的な共和派の一員として意識を形成していった。

アルジェリアでの軍歴と評価

カヴェニャックの軍人としての名声は、フランスが北アフリカにおける支配を拡大していたアルジェリア征服戦争の中で高まった。1830年代以降のフランスは、アルジェリアを本格的に植民地化しようとしており、多くの将軍・士官が現地での軍務を通じて昇進の機会を得た。カヴェニャックも現地での作戦指揮に従事し、厳格で誠実な指揮官として評価される一方、住民に対する弾圧的な作戦にも関与したとされる。こうした植民地戦争での経験は、後にパリの民衆蜂起を「軍事問題」として処理する姿勢につながったと解釈されることが多い。

1848年革命と臨時政府への参加

1848年2月、パリでは選挙法改正をめぐる改革宴会運動が高まり、王政を支えていたギゾー内閣への批判が激化した。やがてデモと弾圧が衝突して二月革命が勃発し、七月王政は崩壊した。この過程は、ヨーロッパ各地に波及した1848年革命の一環であり、フランスでは王政が倒れて第二共和政が成立した。革命後に樹立された臨時政府には、ラマルティーヌら穏健共和派に加え、社会的改革を主張する勢力も参加していたが、秩序維持の観点から軍人の役割も重視された。カヴェニャックはこの時期に軍人としての手腕が買われ、やがて戦争大臣の地位を得ていく。

第二共和政の成立と政治的立場

二月革命後に成立した第二共和政は、成年男子普通選挙をはじめとする政治制度の転換を実現したが、その内部には保守派・穏健共和派・急進共和派・社会主義勢力など多様な流れが共存していた。カヴェニャックは、共和制そのものを支持しながらも、急激な社会変革には慎重で、所有権と秩序を重んじる穏健共和派に属していたとされる。彼は、社会問題を議会と行政による漸進的改革によって扱うべきだと考え、急進的な社会主義的政策には批判的であった。

国立作業場問題と六月蜂起の鎮圧

第二共和政初期、失業対策として創設された国立作業場は、多くの労働者を吸収したが、財政負担の増大や保守派の反発から、次第に政治問題化していった。制憲議会で多数となった保守・穏健派は、この制度の縮小・廃止を進め、1848年6月にはパリの労働者が激しく抵抗して六月蜂起が勃発した。カヴェニャックは軍の指揮権を与えられ、パリ市街に対する砲撃を含む強硬な軍事行動によって六月蜂起を鎮圧した。この鎮圧は、多数の死傷者と逮捕者を生み、1848年革命の中でも最も流血の多い事件の一つとなった。

秩序回復と「秩序派共和主義」

カヴェニャックによる六月蜂起の鎮圧は、ヨーロッパ全体で社会主義運動が注目されるなかで、「秩序」か「社会革命」かという対立を象徴する出来事となった。マルクスとエンゲルスが著した共産党宣言では、こうした1848年前後の情勢が資本主義と階級闘争の観点から論じられており、フランスにおける労働者蜂起の挫折も重要な事例とされる。カヴェニャックは、共和制を維持しながらも社会主義的実験を拒む「秩序派共和主義」の代表として記憶され、のちのフランス政治における中道共和派の先駆として位置づけられることがある。

行政権の掌握と大統領選挙

六月蜂起鎮圧後、カヴェニャックは「行政権長官」として事実上の国家元首の地位に就き、内閣を主導した。彼の政権は、治安維持と財政規律を重視しつつ、共和制の安定化を図るものであったが、労働者や急進派からの支持は乏しく、農村部などでの人気も限定的であった。1848年12月に行われた大統領選挙では、二月革命の記憶や王政期への反発を背景に、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが圧倒的得票を得て当選し、カヴェニャックは敗北した。この選挙結果は、フランス社会が強い執政権への期待とボナパルト家の名声に依然として魅了されていたことを示している。

第二帝政の成立と晩年

大統領選挙で敗れた後も、カヴェニャックは議会において一定の影響力を保ったが、ルイ=ナポレオンが権力を強化し、やがてクーデタを経て第二帝政を樹立すると、共和派としての政治的発言は次第に制約されていった。彼は公的活動から距離を置き、政治的には反帝政の立場を崩さなかったが、政権に対して直接的な反乱を企てることはなかったとされる。カヴェニャックは、秩序維持と共和主義を両立させようとしたが、結果として強力な権力者を台頭させる土壌をつくったという点で、歴史家の評価は分かれている。

1848年フランス革命史の中での位置づけ

1848年のフランスでは、選挙法改正をめぐる運動や改革宴会、保守的王政を支えたギゾー内閣の崩壊、そして選挙法改正運動(フランス)など、一連の政治的事件が重なり合って二月革命と六月蜂起へと至った。カヴェニャックはその頂点に位置し、軍事力によって社会的緊張を抑え込む役割を果たした人物である。彼の行動は、多くの犠牲を伴いながらも共和制を短期的には維持した一方で、社会問題の根本的解決を先送りし、のちの政治的不安定や第二帝政の樹立につながったともいえる。このようにカヴェニャックは、革命の理想と秩序維持の現実のはざまで揺れ動いた19世紀フランス政治の複雑さを象徴する人物として理解されている。