カラ=キタイ
カラ=キタイ(Qara Khitai)は、東北アジアの契丹系勢力が遼(Liao)滅亡後に中央アジアへ移動して建てた政権で、西遼とも呼ばれる。創建者は遼皇族の耶律大石で、1130年代に天山山脈以西へ進出し、バラスグンを拠点として覇権を確立した。1141年のカトワーンの戦いでセルジューク朝の軍を破ると、トランスオクシアナの交通・徴税に主導権を持ち、カラ=ハン朝やホラズム・シャー朝を従属・牽制する位置に立った。遊牧的軍事力と漢文官僚制を併用する二重統治体制を敷き、貨幣・度量衡・暦を含む「中国的」統治文化を中央アジアに残した点が大きな特色である。
成立の背景
11世紀末から12世紀初頭、遼は女真の金に圧迫されて瓦解へ向かった。契丹の一部勢力は西走し、耶律大石が同族・部族連合を糾合して天山以東の草原・オアシス地帯に新たな秩序を築いた。彼らはカラ=ハン朝の内紛に介入して交易路の節点を押さえ、オアシス都市の徴税権を得た。ここにカラ=キタイ政権の基盤が生まれ、のちにイスラーム王朝間の均衡者として重みを増すことになる。
耶律大石と国家構想
創建者の耶律大石(耶律大石)は、漢文行政・契丹貴族・遊牧軍事を束ねる「遼的」経験を中央アジアへ移植した。彼は中国風の皇帝称号と年号を採用し、文書・詔令に漢字や契丹文字(契丹文字)を用いて権威を演出した。他方で、部族的合議や遊牧精鋭を動員する草原の論理を活かし、オアシス都市の自治・商人利権を巧みに保護した。この複合性が、異文化多層地帯での支配を可能にしたのである。
カトワーンの戦いの意義
1141年、サマルカンド近郊カトワーンでカラ=キタイ軍はセルジューク朝スルタン・サンジャルらを破った。この勝利により西トゥランの勢力地図が塗り替わり、カラ=ハン朝西部は事実上の被保護国化、ホラズム・シャー朝は朝貢・服属を迫られた。以後、隊商税・関税・保護料の収入が増し、政権は交易の覇者として黄金期に入る。
統治制度と財政
二重統治体制を敷き、草原の軍事貴族とオアシスの文官・在地名望層を組み合わせた。中心都市バラスグンには漢文系の書記局が置かれ、契丹・ソグド・テュルク・ペルシア系の人材が登用された。財政は「交易課徴と保護」を核とし、隊商保護・橋梁・井戸整備と引き換えに関税を徴収した。貨幣は在地のディルハム体系を尊重しつつ、中国的文様や銘を付した発行が行われ、度量衡の標準化で市場の信頼を高めたとされる。
官僚と在地エリート
都市ごとに徴税・治安を担う知事級を置き、モスク・キャラバンサライ・市場の管轄を整理した。ウイグルやソグドの書記を積極登用し、宗教共同体の自治裁判を容認することで、治安コストの低減と商業活性化を両立させた。
対外関係と軍事
対外政策は「緩圧的覇権」であった。すなわち、被保護国の王権を温存しつつ、王位継承や通商路の管理に介入する。対カラ=ハン朝では宗主権を主張し、対ホラズムでは貢納と引き換えに交易路の安全を保証した。草原側ではナイマンなど強力なテュルク系と均衡を図り、オアシスではイスラーム法に配慮した節度ある統治を心掛けた。
軍制と戦術
騎射主体の機動戦を得意とし、弓騎兵の包囲・佯退・側面打撃を駆使した。傭兵・被保護国軍を編制に組み込み、都市攻囲では投石機や工匠集団を動員して短期決戦を志向した。
文化・宗教と表象
宗教は寛容政策が基本で、イスラーム・仏教・景教などが並存した。統治の象徴として漢文詔書や中国風年号が用いられ、宮廷儀礼・衣制も「遼的要素」を帯びた。オアシス社会ではソグド語・テュルク語文書が稼働し、複数言語の公的利用が行政の潤滑油となった。契丹の伝統(西遼)は、中央アジアの王権表象へ一定の影響を与えたのである。
崩壊とモンゴルによる継承
耶律大石の没後、蕭塔不煙の摂政期を経て政権は維持されたが、13世紀初頭にナイマンのクチュルクが簒奪すると均衡が崩れた。クチュルクは過度な宗教介入でイスラーム共同体の支持を失い、ホラズムとの対立も激化した。1218年、モンゴル帝国のジェベ将が西走すると、在地勢力は相次いで帰順し、クチュルクは討たれてカラ=キタイは終焉を迎えた。モンゴルは隊商路の保護・課税という実務を継承し、ユーラシア規模の交通秩序へと接続していく。
歴史的意義
カラ=キタイは、東アジア発の王権文化を中央アジアの多宗教・多言語社会へ適応させ、交易路を基盤にした覇権モデルを示した政権である。遼の制度的遺産を活かし、草原とオアシスの二元界を統合した経験は、その後のモンゴルやティムール期にも通底する。契丹系の記憶は地域の王権表象・貨幣意匠・都市統治の細部に残り、ユーラシアの相互接続が制度化される過程で重要な橋渡しを担ったと評価できる(関連:ツングース系、女直、西夏文字)。