カラハン宣言|ソ連の対中不平等条約破棄

カラハン宣言

カラハン宣言とは、ロシア革命後のソビエト政権を代表した外交官レフ・カラハンが、1919年から1920年にかけて中国政府に提示した対中声明であり、帝政ロシアが中国に対して結んだ不平等条約や各種特権を放棄すると約束した文書である。これは、第一次世界大戦後の国際秩序が揺らぐなかで、革命政権が従来の帝国主義外交と決別しようとした試みであり、アジアにおける反帝国主義外交の象徴として評価されている。

背景

19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアは清朝および中華民国政府とのあいだで、多くの不平等条約や租借・利権協定を結び、中国東北地方や新疆などで強い影響力を行使していた。とくに義和団事件後の賠償金や、中東鉄道の敷設・経営権、外蒙古の勢力圏化などは、列強による中国分割の一部とみなされた。このような状況は、第一次世界大戦中に日本が山東半島のドイツ権益継承をめぐって展開した山東問題や、対華二十一か条要求、さらには石井ランシング協定などとあいまって、中国民衆の強い反帝国主義感情を生み出していた。

1917年のロシア革命によって帝政が倒れると、新たに成立したボリシェヴィキ政権は、旧政権が進めてきた帝国主義的対外政策を否定する姿勢を打ち出した。レーニンは諸民族の自決と不平等条約の廃棄を掲げ、アジア諸国の民族運動との連携を模索した。こうした路線のもとで構想されたのがカラハン宣言であり、中国に対して旧ロシアの特権を放棄すると宣言することで、列強と一線を画し、中国の民族運動に接近しようとしたのである。

宣言の提示と性格

カラハン宣言は、当時モスクワ政府の対中国交渉を担当していたレフ・カラハン人民委員代理(外務次官に相当)が起草した対中通牒である。1919年に最初の案内が発せられ、その後1920年にも同趣旨の文書が改めて提示されたとされる。宣言は、中国との関係を「新しい平等な基礎」に置くことをうたい、帝政ロシアが押しつけた不平等条約の放棄や、賠償金・租借地・鉄道利権などの再検討を約束する内容を含んでいた。

第1次カラハン宣言(1919年)

1919年の段階で提示されたカラハン宣言は、中国北方を支配していた北京政府(いわゆる北洋政府)に宛てられたとされる。この宣言では、帝政ロシアが結んだ対中条約の多くを無効とみなし、平等な新条約を結び直す用意があることが示された。さらに、義和団事件後に課された賠償金のロシア取り分の放棄や、中東鉄道をはじめとする鉄道利権の将来的な処理を中国側との協議に委ねる姿勢が表明され、中国の完全な主権回復を支持する姿勢が強調された。

  • 不平等条約の再検討と廃棄方針
  • 賠償金・租借地・鉄道利権の返還を含む協議の約束
  • 中国の領土保全と完全独立の承認

第2次カラハン宣言(1920年)

1920年のカラハン宣言は、最初の通牒の趣旨を繰り返しつつ、より具体的な表現で中国側に伝えられたとされる。ここでもソビエト政権は、帝政期の対中条約を認めず、中国とのあいだで平等・互恵の新条約を締結する意思を表明した。ただし、中東鉄道など戦略的価値の高い権益については、中国側と共同管理の形を模索する余地も残されており、理想と現実のあいだに一定のギャップが存在していたことも指摘される。

中国側の反応と国内政治

カラハン宣言は、中国において大きな注目を集めた。1919年の五四運動を契機に高まった民族主義の空気のなかで、「列強の特権放棄」をうたうソビエト政権の姿勢は、列強の中でも異色のものと受け止められたのである。一方で、北京の北洋政府は、内戦状態や財政難、また対日関係など複雑な事情から、直ちにソビエト政権を承認することには慎重であった。

1920年代前半になると、広東を拠点とする中国国民党や、モスクワの支援を受けて成立した中国共産党が台頭し、中国政治は分裂と再編を繰り返した。ソビエト側はカラハン宣言で示した反帝国主義の姿勢を武器として、広東国民政府や革命勢力との連携を深め、国民党と共産党の第一次合作を後押しした。このように宣言は、単なる対北京政府外交にとどまらず、中国国内政治にも影響を及ぼしたといえる。

ソビエト外交と反帝国主義の理念

カラハン宣言は、ソビエト政権が掲げた反帝国主義・民族自決の原則を、具体的な対外政策として示した事例である。帝政ロシアが中国やイラン、トルコなどに対して築いた勢力圏を否定し、形式上これを放棄すると宣言することは、旧来のヨーロッパ列強との明確な違いを示すことであり、アジアの民族運動から支持を得ることを意図していた。

同時に、ソビエト外交は、コミンテルンを通じて各国の革命運動を支援する方針とも結びついていた。カラハン宣言によって、中国民衆に対して「ソビエトは不平等条約を押しつけない」というイメージを広めることは、対日・対英米など他の列強との宣伝戦においても有利に働いたと考えられる。その意味で宣言は、理念と宣伝を兼ね備えた革命外交の一環であった。

その後の展開と歴史的評価

1924年、モスクワ政府と北京政府とのあいだで正式な国交樹立が実現し、蘇中協定が結ばれると、カラハン宣言で打ち出された原則は、条約文書のかたちである程度具体化された。不平等条約の多くは再検討され、中国側の主権が一定程度回復した一方、中東鉄道の共同経営のように、ソビエト側が権益を維持した部分も残された。このため、後世の研究では、宣言が理想どおり完全に実行されたわけではないことも指摘されている。

それでもなお、カラハン宣言は、東アジア国際関係史のなかで画期的な出来事とみなされることが多い。不平等条約体制への初期の挑戦であると同時に、革命政権が外交を通じて自らの正統性を訴え、植民地・半植民地地域の民族運動との連携を模索した重要な例であるからである。日本の文化政治や朝鮮の三一独立運動、中国内部の国民党と共産党の動きなどとあわせて考えることで、第一次世界大戦後のアジアにおける反帝国主義の広がりと、その中でソビエト外交が果たした役割を立体的に理解することができる。