エジプト総督|オスマン帝国の地方支配者

エジプト総督

エジプト総督とは、近世から近代にかけてエジプトに派遣・設置されたオスマン帝国の地方統治者を指す呼称である。公式にはパシャやワーリーと呼ばれ、スルタンを頂点とするオスマン帝国の一地方行政単位として、徴税・治安維持・軍事指揮を担った。とくにナイル川流域という戦略的・経済的に重要な地域を支配したため、帝国内で特別な地位を占め、のちには事実上の半独立的支配者として振る舞うようになった支配者層もこの語で呼ばれる。

オスマン帝国支配下のエジプト総督

エジプトはマムルーク朝の時代を経て、16世紀初頭にオスマン帝国に征服された。イスタンブルの中央政府は、征服地エジプトを帝国の一州とみなし、スルタンに忠誠を誓うパシャをエジプト総督として任命した。総督は一定期間ごとに交代する官僚・軍人であり、イェニチェリなど帝国軍の駐屯軍を背景に統治を行ったが、現地のマムルーク有力者や宗教指導者との妥協のうえに権力を築くことが多かった。帝都から遠く離れた土地であったことから、しばしば総督は中央の監督を離れて独自の政治運営を行い、地方有力者との勢力均衡のなかで支配を維持した。

ムハンマド=アリーと世襲化

19世紀初頭、アルバニア系軍人のムハンマド=アリーが権力闘争を制し、1805年に事実上のエジプト総督として承認されると、その性格は大きく変化した。彼は近代的常備軍の創設、産業育成、綿花栽培の拡大など一連の改革を推進し、エジプトを半独立的な近代国家へと変貌させた。やがてその地位は世襲とみなされるようになり、彼の家系がエジプトを支配することになる。形式上はオスマン帝国の臣下にとどまりつつも、外交・内政において独自の政策を進めたため、総督は帝国の地方官僚というより、王侯に近い存在へと変質した。

列強の干渉とエジプト総督の権限

ムハンマド=アリーの後継者たちも、綿花輸出や運河建設などを通じてエジプトの近代化を進めたが、同時にヨーロッパ列強への財政的依存を深めた。巨額の借款やスエズ運河の建設は、総督政権の財政を圧迫し、やがて国際的な財政管理と干渉を招いた。とくにイギリスは、インド航路の要衝としてエジプトを重視し、総督の軍事行動や外交姿勢に強い制約を加えるようになった。この結果、名目上はオスマン帝国の臣下であるエジプト総督、実際には列強の監視下で動く支配者という二重の構造が成立した。

エジプト総督とアラブ世界の動き

エジプト総督家が進めた軍制・教育・官僚制の改革は、エジプト社会に新たな知識人層を形成し、アラビア語出版やイスラーム法学の再検討などと結びついた。これらの動きは、のちに中東各地で広がるイスラーム改革運動アラブ文化復興運動の先駆的な側面をもち、エジプトはアラブ知識人世界の中心地となった。また、帝国支配への反発と自己統治の志向は、19世紀末から20世紀初頭のアラブ民族主義運動アラブの覚醒と結びつき、エジプトの経験は広くアラブ諸地域に参照された。同時期、アラビア半島ではワッハーブ王国ワッハーブ派サウード家の動きも活発化しており、オスマン帝国支配の動揺という共通の背景のもとで、エジプトの総督政権はアラブ世界再編の一拠点となった。

近代エジプト国家への移行

19世紀末、イギリスはエジプトに軍を進駐させ、事実上の保護国支配を開始したが、形式的にはオスマン帝国とエジプト総督家の関係が維持された。第一次世界大戦中にオスマン帝国が同盟国側につくと、イギリスはエジプトを正式な保護国と宣言し、総督家の支配者にスルタンの称号を与えて帝国からの名目的離脱を演出した。その後、1922年のエジプト王国独立により、総督という呼称は事実上使用されなくなり、ムハンマド=アリー家は国王として立憲君主制の枠組みに組み込まれていく。こうしてエジプト総督は、オスマン帝国の地方統治者から、半独立的君主、そして近代国家の王へと姿を変えながら、その役割を終えることになった。