アッバース朝|多民族のためのイスラム教を成し遂げた帝国

アッバース朝

アッバース朝は、アッバース家のアブー=アルアッバースが開いたイスラム王朝である。過激シーア派や非アラブ系改宗者の不満を利用して建国されたが、その後、シーア派を弾圧し、多数派のスンニ派を保護した。アラブ人の徴税面での特権を解消して、イスラム教徒間の平等を実現し、アラブ帝国からイスラム帝国への転換をはかった。第2代マンスール以後、都はほぼバグダードにおかれた。官僚制による中央集権体制を整備して、8世紀後半から9世紀初頭にかけて全盛期を迎えたが、政治的に分裂・弱体化し、13世紀、フラグの西征で滅亡した。

アッバース家

アッバース家は、メッカのハーシム家の一族である。アル=アッバースがムハンマドの叔父であったところから次第に勢力を得て、その子孫アブー=アルアッバースがウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を建てた。

ウマイヤ朝の滅亡

アッバース朝は東カリフ国とも呼ばれ、ウマイヤ朝との政争に敗れ、イラン東境に亡命していた反ウマイヤ勢力によって建てられた。彼らは、シーア派の勢力を利用して、ムハンマドの叔父の子孫に当たるアブル=アッバースを擁した。民衆の不満が募るとウマイヤ朝を打倒し、バグダードに遷都した。

ホラーサーン

ホラーサーンは、イラン北東部の地方で、アッバース家によるウマイヤ朝打倒運動の拠点となった。ホラーサーンで蜂起した革命軍は、ウマイヤ朝の軍隊を追って西方に進出し、749年にはイラクの州都であるクーファに入城。翌年、アブー=アルアッバース(位750~754)を初代カリフに推戴した。

専制国家

アッバース朝は、ササン朝ペルシアの影響を受けて専制国家の体制を整えた。

アッバース朝の裏切り

マワーリーやシーア派ムスリムの支援を受けてウマイヤ朝を打倒したものの、安定した政権維持のためには、多数派であるスンニ派の宗旨を無視することはできなかった。ここに革命運動に協力したシーア派の期待は裏切られ、弾圧によって数多くのシーア派ムスリムの命が奪われることになる。

タラス河畔の戦い

751年、アッバース朝は、パミール高原を越えて西進した唐軍を中央アジア北部のタラス川で大破することに成功する。唐の勢力をパミール以東にはねかえして東西貿易の覇権を握ると、8世紀後半に栄えた。なお、このときに製紙法がイスラム世界に伝わったとされる。

マンスール

マンスール(713頃~775)は、アッバース朝第2代カリフである。在位754年~775年で、アッバース朝国家の基礎を築いた。文書庁、租税庁などの行政機構を整備して中央集権体制の確立をはかった。さらに諸官庁を統括する宰相(ワズィール)の職を創設して官僚機構の整備に努めた。軍事面では、王朝建設に功績のあったホラーサーン軍のを重用し、権力基盤とした。さらに主要な街道に駅馬を配して駅伝の制度を整えたことは、地方の実情把握に効果を発揮し、これによって中央集権的な体制づくりが着実に進行した。

バグダード

バグダードは、アッバース朝の都で、ティグリス川中流に造営された円形の都市である。マンスールによって新都とされ、766年に完成し、「平安の都」と名づけられた。三重の城壁に囲まれた円城の内部には、カリフの宮殿やモスクがそびえ立ち、商人や職人は城壁の外側に住むことを義務づけられた。イスラム世界の政治・経済・文化の中心として繁栄し、最盛時には人口150万に達したとされる。

経済活動

バグダードはティグリス川が貿易地点として栄え、各市場(スーク)はイスラム世界の特産物のほかに、中国の絹織物・陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などで栄えた。経済の発展につれて、バグダードには文人・学者・技術者などが数多く来住し、人口100万を擁するこの国際都市を中心にして、イスラムの高度な都市文明が開花する。

イスラム法

アッバース朝時代には、イラン人が要職に抜擢され、ムスリムの平等を旨とするイスラム法が制定されたことによってアラブ人の優遇政策はしだいに失われた。また、イスラム教徒に改宗すれば、非アラブ人でも税金に優遇されるようになり、また、アラブ人であっても、耕作に従事する場合には地租が課せられるようになった。

多民族

各民族にイラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人などを積極的に受け入れ、各民族の特徴をいかして、これらの人材を活用した。また、カリフの政治はイスラム法に基づいておこなわれたが、法の解釈にあたるウラマー(知識人)もまた、さまざまな民族の出身者によって構成された。

ハールーン=アッラシード

ハールーン=アッラシード(763頃~809)は、アッバース朝第5代カリフ(在位786~809)で、学芸を奨励し、イスラーム文化の黄金時代を現出した。『千夜一夜物語』の登場人物としても知られる。

ワズィール

ワズィールは、アッバース朝の宰相で、もとはカリフの代理職であったが、のち国政全般を統率するようになった。

ザンジュの乱

ザンジュの乱(869~883)は、アリー=ブン=ムハマドが、黒人奴隷(ザンジュ)を巻き込んでおこした反乱である。アッバース朝時代になると、カリフ・官僚・商人などによる私領地(ダイア)経営がさかんとなり、とくに南イラクではアフリカ出身の黒人奴隷(ザンジュ)を用いて土地の改良事業がおこなわれた。劣悪な生活条件に苦しむザンジュは、869年に大規模な反乱をおこし、10年余りにわたって南イラク一帯を支配し、ザンジュ王国を名乗った。883年に平定されたが、アッバース朝を動揺させ、カリフの権威は地に落ち、アッバース朝の国家体制は大きく揺らいだ。

国家財政

アッバース朝の国家財政は、被征服地からの上納によって大部分まかなわれたが、特に、メソポタミア地域の農業生産力を高めるため、灌漑設備が整えられ、多くの運河が作られた。インフラ整備を整えることができ、首都バグダードはメソポタミア地域の資産を背景として、唐の長安と並ぶ世界的な国際都市として繁栄をきわめた。

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