アイルランド自治法案
アイルランド自治法案とは、グラッドストンやアスキスら自由党政権が提出した、アイルランドに地方議会と行政権を与えようとする「ホーム・ルール(Home Rule)」構想に基づく法案である。アイルランドを連合王国内にとどめつつ自治を認める制度案であり、アイルランド問題の平和的解決策として構想されたが、イギリス本国の政党対立や北部アルスターのプロテスタント住民の反発によって繰り返し挫折し、やがてアイルランド独立運動へと結びついていった。
背景―連合王国とアイルランド問題
アイルランド自治法案の背景には、1801年のアイルランド併合によって成立した大ブリテンおよびアイルランド連合王国の枠組みと、その中で深刻化したアイルランドの社会不安があった。カトリック教徒が多数を占めるアイルランドでは、地主制に基づく小作農の貧困が続き、19世紀半ばにはジャガイモ飢饉を契機とする大量の餓死と移民が発生した。これに対し、急進的な武装蜂起を志向するフィニアンや、比較的穏健な民族運動である青年アイルランド党などが登場し、やがて自治を議会政治のルートで実現しようとするアイルランド国民党が台頭した。さらに土地問題をめぐっては、自由党政府によるアイルランド土地法の制定が行われ、地主支配の緩和と小作農救済が進められたが、それでもなお政治的自治への要求は強まり、ホーム・ルールという構想が現実味を帯びていった。
第1次アイルランド自治法案(1886年)
1880年代に入ると、チャールズ・スチュアート・パーネル率いるアイルランド国民党が英議会の「キャスティング・ボート」を握り、グラッドストン自由党内閣に対してアイルランド自治を強く迫った。これに応えるかたちで提出されたのが、第1次アイルランド自治法案(1886年)である。法案はダブリンにアイルランド議会を設置し、内政の大部分を担当させる一方、軍事・外交などはロンドンの議会が管轄するという二重構造を想定していた。しかし、アイルランド議員をロンドン議会から排除するかどうかや、プロテスタント地主の権益保護をめぐる懸念から、保守党と自由党内の反対派(自由統一党)が猛反発し、下院採決で否決された。これにより自由党は分裂し、イギリス政治における「アイルランド問題」は一層複雑化した。
第2次アイルランド自治法案(1893年)
1892年に自由党が再び政権に復帰すると、グラッドストンは第2次アイルランド自治法案(1893年)を提出した。この法案では、アイルランド議員の一部をロンドン議会に残すなど、前回の批判を踏まえた修正が加えられていた。下院では辛うじて可決されたものの、上院である貴族院はこれを圧倒的多数で否決した。当時の貴族院は大土地所有貴族や保守派によって支配されており、アイルランド自治に強く抵抗していたのである。第2次法案の挫折は、貴族院の拒否権が近代的議会政治の妨げとなっていることを浮き彫りにし、その後の議会改革や選挙制度改革、さらには労働組合法や教育法などの立法過程にも影響を及ぼした。
第3次アイルランド自治法案と第一次世界大戦
20世紀に入り、1906年の自由党大勝と社会改革の進展を経て、1911年には貴族院の拒否権を制限する議会法が成立した。この状況下で提出された第3次アイルランド自治法案(1912年)は、貴族院が反対しても一定期間後に成立しうる法案となり、実現に大きく近づいた。ところが、北アイルランドのアルスター地方ではプロテスタント系のユニオニストが自治に激しく反対し、武装組織を結成して抵抗を準備したため、アイルランドは内戦寸前の緊張状態となった。1914年、法案そのものは成立し「アイルランド統治法」として制定されたが、第一次世界大戦の勃発により施行は無期限に延期された。その後、1916年のイースター蜂起やシン・フェインの台頭を経て、アイルランドでは完全独立を目指す急進的な運動が主流となり、自治の枠組みによる妥協は次第に後景へ退いていく。
歴史的意義
アイルランド自治法案は、最終的に当初構想どおりの形で実現したわけではないが、イギリス帝国の枠内で民族的周辺地域に自治を与えるという構想を具体化した点で重要である。アイルランドにおける自治論争は、貴族院の権限を制限する議会法や、選挙権拡大を進めた選挙法改正(第3回)などと結びつきながら、イギリス本国の立憲体制を大きく変容させた。また、北部アルスターと南部の対立は、のちの北アイルランド紛争の遠因ともなり、自治と分割、独立という選択のあり方が20世紀の民族問題に深い影響を残した。さらに、アイルランドで試みられたホーム・ルールの構想は、後世のスコットランドやウェールズなどにおける権限移譲(デボリューション)の先例とも評価され、帝国から連邦、そして多民族国家の再編へと向かう近代世界史の一局面として位置づけられている。