韓非子|諸子百家,法治主義,形名参同術,矛盾,守株待兔

韓非子 ?~233B.C.

韓非子戦国時代末に活躍した諸子百家のひとり。法治主義を掲げて法家思想を集大成した。韓の庶出の公子。形名参同術や法術思想に系統し、独自の理論を作り上げたが、最終的には老子の思想を好んだ。生まれつき吃音があり、弁舌は立たなかったが、文才に優れていた。李斯とともに荀子に学んだ。形名や法術を好んだ韓非子は、強大な秦に領土を削り取られ、日々衰弱していく韓の貧窮を憂い、父・韓王に上書して国政改革の必要性を訴えたが、韓王の正嫡でなかったこともあり、聞き入れてもらえなかった。韓非子は国家が衰弱していく原因がどこにあるかを深く分析し、著述に専念して布告強兵の法術理論を完成させた。秦王政(後の秦の始皇帝)は、韓非子の文書に感銘を受け、「この人と親しく会見できたなら、死んでも悔いはない」とまで絶賛した。秦は韓非子に会うため、韓を強襲して韓非子を派遣するように仕向けた。だが、すでに秦につかえていた李斯は、自分の地位が乗っ取られると危惧し、韓非子の陰謀説を秦王に警告し、やむなく投獄された。李斯は韓非子を毒殺に追い込む。

韓非子

韓非子

『韓非子』

現存最古の図書目録である『漢書』芸文志に「韓子五十五篇」と記録される。先頭の「初見秦」、「存韓」というプロローグ部分。王の政治が重臣たちによって阻害されているという憤懣を記した「孤憤(こふん)」、王に進言し、説を需容してもらう困難さを記した「説難(ぜいなん)」、君主を脅かす悪臣について記された「姦劫弑臣(かんきょうししん)」、国益を食い荒らす5つの虫(学者、言談者、帯剣者など)についてするされた「五蠹(ごと)」、儒家と墨家を批判する「・顕学(けんがく)」などの思想をまとめた諸篇。それに加え、老子の思想の開設的部分「解老(かいろう)」、「喩老(ゆろう)」そして韓非の思想をわかりやすく付属した「説林(ぜいりん)」、「内儲税(ないちょぜい)」、「外儲説」などからなる。秦の崩壊後、法治主義の過酷性をとりあげて批判の的にはなったが、名文は後世に伝えられた。

法治主義

儒家が君主の徳によって国家を治める徳知主義を否定し、法治主義を訴えた。人間のの徳を重んじる儒家の人間観は楽観的な傾向があり、戦国時代では通用しないことが多かった。韓非子は身分の上下を問わずに強制力を持つ成文法を重視した。ただし、現在の法治主義とは違い、君主の権力強化を目的とする傾向が強い。その目的は、大きく三点あげられる。

  1. 法令を無視して指摘権力の拡大を狙う造反者を排除し、君主権の権力を強化する
  2. 法や賞罰により民衆の価値基準を農耕と戦闘のみに統一させ、富国強兵を実現する
  3. 法治により犯罪を防ぎ、社会秩序を維持して民衆の安全な生活を保証する

このように法の支配による国家の安定、強化により君主の権力強化を意図した。

形名参同術

形名参同術とは、君主による官僚支配の具体的な方法である。君主は臣下に仕事を命ずる際、任務の遂行に必要な人員・費用・期間、職分に応じた役割分担、見込まれる成果などを記した計画書を提出させる。その上で必ず計画通りに事業を成功させますと誓約させる。これは君主と臣下との一種の契約といえ、その内容は文書に残される。これを名という。そして、はっきりと目に見える形、結果や実績を形といった。この名と形を照合(参同)し、一致すれば恩賞をあたえ、不一致であれば、降格や罷免などの罰を与える。この方法で官僚を働かせれば、口先ばかりで実行力のない無能な連中は厳しく査定・処罰され、官僚組織から排除され、自動的に優秀な官僚のみが残り、官僚組織から排除される。これを形名参同術という。
この考え方は、戦国時代の思想家、申不害の影響を受ける。

法術の士

韓非子は法術の士の存在を強調し、その価値を協調する。私利私欲を図る重臣とはちがい、法術に精通した士は必ず遠い将来まで見通し、明瞭に察知する。そして彼らは法治主義によって私利私欲に基づく権力闘争を排除する。こうした法術の士を優遇する王を「明王」と呼んだ。王と法術の士との協力で帝国を完成させることができる。

秦への影響

1975年に中国の湖北省で秦の法律(秦律)を記した文書が発見されたが、その基本的な政治理念は韓非子の思想と類似性が認められた。

矛盾

矛盾という言葉の起源として有名。矛盾とは、論理的につじつまがあわない事によって使われる。『韓非子』難一篇の故事。

楚人有鬻盾与矛者 譽之曰 吾盾之堅 莫能陷也 又譽其矛曰 吾矛之利 於物無不陷也 或曰 以子之矛 陷子之盾 何如 其人弗能應也
昔、楚の国の人で矛と盾を売るものがあった。この矛はどんな盾でも突き通すことができ、また、この盾はどんな矛でも突き通すことができない、と。「それなら、その矛でその盾をついたらどうなるか。」と問われたが、答えることができなかった。

これは儒家批判として用いられた。孔子は世界の混乱を憂え、各地に赴き自ら率先して労働に順次した古来の聖人舜を聖人として称える。そして同時に聖人堯も、天子の位に有りながら、統治が乱れ、それゆえ舜が奔走しなければならなかった。同時に儒家がいうように舜や堯が同時に聖人として扱うのはありえない。これは「矛盾」である。

守株待兔

守株待兔の故事もまた、歴代聖王の統治を理想とし続けた儒家を揶揄したもの。『韓非子』五蠹(ごと)

宋人有耕田者。田中有株、兎走觸株、折頸而死。
因釋其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身爲宋国笑。
今欲以先王之政、治當世之民、皆守株之類也。
昔、宋の農夫がいた。たまたま切り株にうさぎがぶつかって首を折って死んだのを見た。また同じようなことが起こるに違いないと期待し、その株の前でじっと待っていたが、二度とうさぎは得られず、彼は笑いものになった。いま、古代の聖王の政治のやり方で現代の民を統治しようとするのは、この切り株を見守っていた者と同じである。

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