賀茂真淵|国学,ますらおぶり,高く直き心

賀茂真淵

賀茂真淵は、江戸時代中期の国学者。主著『国意考』,『万葉考』,『歌意考』。浜松(静岡県)の神職の子である。当初は、荻生徂徠の学問を学んだが、32歳のとき、荷田春満に学んで国学を志すようになった。やがて江戸に出て、田安宗武(徳川吉宗の三男、歌人)に仕えて国学を講じ、退官後は著述に専念する。賀茂真淵により日本古典を文献学的方法によって研究し、日本古来の精神のあり方(古道)を明らかにする国学が確立した。
賀茂真淵によれば、古道を明らかにするためには、儒教や仏教の影響を受けていない日本の古典に当たり、古語を研究することが必要である。賀茂真淵は仏教や儒教の影響を受けた「からくにぶり」や繊細でしとやかな「たをやめぶり」排除し、『万葉集』の研究から、歌に込められた天地自然に従う素朴でおおらかな雄々しい気風である「高く直き心」や「ますらをぶり」を見いだした。これら古代日本の精神を歌風や個人のあり方にとどめず、現実の政治のあり方に広げ、統治の理想とした。賀茂真淵の研究について、本居宣長とともに国学を学問として体系づけた。

目次

賀茂真淵の生涯

賀茂真淵(かものまぶち)は遠江国(静岡県)浜松の加茂明神(かもみょうじん)の神職の三男として生まれた。生家は経済的に貧窮した家庭で生まれ、養子に出されたが、養子先も転々とする青年期を過ごした。10歳で江戸の国学者の荷田春満の弟子に師事し、その後、浜松で自らの私塾を開く。30歳のころ、京都に行き、荷田春満のもとで学ぶが、39歳の時、師が死去すると浜松に戻り、その後、江戸で私塾を間き、国学を講じた。50歳で、徳川家の和学御用掛となり、田安宗武に仕え、64歳で引退した後も多くの著作を残した。66歳の時、伊勢松坂の彼の宿に本居宣長が訪れたが、本居宣長は、賀茂真淵から生涯一度限りの教えを受けた。これは「松坂の一夜」として知られ、以後、両者の間で文通がなされた。

歴史背景

当時は、中世からの和歌に対する心がけとして、仏教、儒教の中にある誠の心を尊重する考えが主流であった。特に、江戸幕府は朱子学を官学としたことから、『大学』の誠意を和歌の心と位置づけ、幽玄(ゆうげん)を重んじて技巧を凝らす歌風が支配的であった。しかし、これでは歌に込めたい心を率直に表せないとの批判が生じ、賀茂真淵は「古道」を説いて、和歌を本来のあるべき姿に戻すとともに、国学を確立させたのである。

たゞ唐国は心わろき国なれば、深く教てしも、おもてはよき様にて、 終に大なるわろごとして、世をみだせり。・・・・・・我国の、むかしのさまはしからず。只天地に随て、すべらぎは日月也。巨は星也。

ますらおぶり(益荒男振)

賀茂真淵が理想とした、男性的でおおらかな万葉調の歌風と人間のあり方。古代の精神を求めて『万葉集』の研究に向かった真淵が万葉の世界にとらえた、高く直き心が歌風にあらわれたもの。賀茂真淵は、平安時代以降には「たおやめぶり」や「からくにぶり」の(中国から伝わった儒仏思想の影響を受けた風儀)が加わり、古代の純粋さが失われたと批判した。

唐国の学びは、其始人の心もて、作れるものなれば、けたにたばかり有て〔理屈っぽくて〕、心得安し。我すベら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし〔とらえにくい〕。

たおやめぶり(手弱女振)

「たおやめぶり」とは、『古今和歌集』、『新古今和歌集』に見られる優美で技巧的であり、女性らしい歌風の歌である。賀茂真淵は批判的であったが、本居宣長はこの心情を重視した。

高く直き心

高く直き心とは、賀茂真淵が『万葉集』の研究から見出した、古代日本人の素朴で雄渾な精神。私欲を取リ去った、素朴で高貴な心で、「高き」の中に「みやび」が、「直き」の中にたくましさ、「雄々しき心」がある。(「雄々しき心」 とは、おおらかで男性的な精神である「ますらをぶり」に対応する。)儒学の道は理屈に走り、人為的でせま苦しいが、日本古代の道はおおらかな、自然で素直な心にあると主張した。

『国意考』

『国意考』(1806年)日本固有の精神を強調するため、儒教を批判し、日本古来の歌道の経世(政治)上の価値を説いた。