西ドイツと東ドイツ|ドイツが東西にわかれた理由

西ドイツと東ドイツ

第二次大戦で、ドイツは第二次世界大戦末期に国内で地上戦を展開された。アメリカ、フランス、イギリスは東から西に向かい、旧ソ連は西から東へ侵攻した。そのため、戦後はエルベ川から東側はソ連、西側はアメリカ、フランス、イギリスによって占領された。やがて冷戦の中で両者は西と東に分裂され、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)は資本主義、東ドイツ(ドイツ民主共和国)は社会主義という二つの国に分かれた。

ベルリンの壁

ベルリンの壁

目次

第二次世界大戦の敗戦

1945年4月20日、ベルリンをソ連軍に包囲されたドイツのヒトラーは、長年連れ添ったエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた後に自殺した。第二次世界大戦でヨーロッパ大陸の広大な領土を侵略・征服したドイツであったが、最終的には、東からはソ連軍、西からはアメリカ・イギリス連合軍に攻め込まれ、ヒトラーの自殺した後は政治的空白状態に陥る。結果、ドイツは、アメリカとイギリスとの西部戦線は5月7日、ソ連との東部戦線は8日に無条件降伏した。

ドイツの分裂

ドイツ国内を流れるエルベ川の東側はソ連軍が、西側はアメリカ軍が占領したことにより、ドイツ東部はソ連、西部はアメリカ、イギリス、フランスによって占領されることになる。これをきっかけにドイツは東西に分裂した。

米ソ英仏の分割占領

ドイツの北東部分をソ連が占領し、北西部をイギリス、南部をアメリカ、南西部をフランスが、それぞれ分割占領した。占領地域では、それぞれの占領軍が、独自の占領方針を進めた。ソ連軍の支配地域では、1945年9月から土地改革が行われ、100ヘクタール以上の土地が没収された。基幹産業の国有化が進み、ソ連化が急激に進められた。 一方、アメリカ支配地域では、1945年9月に3つの州が設置され、州政府が任命された。アメリカの州制度をベースに州を基本とした分権的な連邦体制の確立した。

ベルリンの共同統治

エルベ川の東にあった首都のベルリンは、ソ連占領地域内であったが、首都であることを理由に、4ヵ国の共同管理になる。共同管理であったが、ベルリンの内部は、東側はソ連、西側はアメリカ、イギリス、フランスという分割占領であったが、この分割占領された首都の全体を、どこが支配するのかで、アメリカ、イギリス、フランスの3カ国とソ連の意見はまとまらなかった。

ソ連による搾取

戦後のドイツへの対応に対して、戦後の復興を考えていないソ連と戦後の復興を配慮した西側諸国の意見は対立した。ソ連のスターリンはドイツとの戦争で多大な被害が出たため、搾取を徹底した。ドイツ内の工場を取り上げ、ソ連に移動させた。特にソ連はドイツの通貨を独自で大量に発行し、ドイツの資金で自国の投資を行った。この乱暴な搾取に反発した西側諸国(アメリカ、イギリス、フランス)は、新しい通貨を発行して発行権限を一本化することを計画した。これに対して、ソ連は、ベルリン全体への支配権を掌握するため、ベルリン市内だけ利用できる、ソ連による独自通貨を発行しようとした。アメリカ、イギリスは、1948年6月、独自の通貨発行に踏み、ドイツ西部、西ベルリン市内でも通用できるものであった。ソ連は、同月、アメリカ、イギリス、フランスの占領下のベルリン西部(西ベルリン)封鎖で応えた。

ベルリン封鎖

ソ連がベルリン封鎖ことで、西ベルリン市民、そしてドイツ西側占領地区の人たちの反ソ・反共産党感情は決定的になり、スターリンは、西ベルリン、そして西ドイツへの影響力を完全に喪失することになった。西ベルリンは、完全に孤立し、食料、原料、電力の供給がされず、貧窮政策をおこなった。これに対して激怒した西側諸国は「空の架け橋作戦」を展開し、空輸によって支援を行った。

西ドイツと東ドイツの分裂

1949年9月、アメリカ、イギリス、フランスが占領していた「西側」のドイツが、ドイツ連邦共和国として独立した。同年10月ソ連は東側を社会主義統一党のドイツ民主共和国として独立させた。西ドイツは、アメリカからの援助もあり、順調に発展し、言論の自由も保障された。一方、東ドイツは、ソ連が賠償として工場の施設を根こそぎ持ち去ったため、経済再建が難航、言論の自由は認められなかった。

東ドイツからの脱出

1959年、東ドイツは社会主義理論に基づき、経済の集団化の方針を打ち出したため、農民から土地を取り上げて集団農場での労働を強いた。工場や小店でも同様の事がおこり、取り上げられた人々は、西ドイツへの脱出を計画するようになる。しかし、東西ドイツの境界は、鉄条網や地雷をくぐり抜ける必要があったが、ベルリン経由であれば、西ベルリン、さらにそこから高速道路や鉄道、航空機で西ドイツへ入るルートが殺到した。

ベルリンの壁

西ドイツへの亡命者の中には、医師、科学者、技術者など知識人や専門職も多く、危機感を募らせた東ドイツは全長150kmに及ぶベルリンに壁を建設した。ベルリンの壁は当初はシンプルなものであったが、次第にコンクリートで作られた。厳しい監視下に置かれ、ベルリンの壁を超えて亡命しようとしたものは、射殺された。

ベルリンの壁

ベルリンの壁

東ドイツと西ドイツの統合

東ドイツは政治的・経済的に失策が続き、政府は市民からの支持も得ることはなかった。また、ソ連を筆頭に世界中の東側諸国も限界が訪れ、ソ連の衛星国は独立と民主化の流れのなかにあった。1989年11月9日、東ドイツ政府は、西ドイツへの旅行を許可する法律を発行すると、ベルリンの壁に人々が殺到し、興奮した民衆は壁を倒壊させた。その結果、1990年10月3日にドイツの統合が行われることになる。