蘇我蝦夷|古代の豪族,父は蘇我馬子、子が蘇我入鹿

蘇我蝦夷

蘇我蝦夷は、古代日本の豪族である。蘇我馬子の子で、蘇我馬子のあとを次いで大臣として権力者となる。息子は蘇我入鹿で皇極天皇の時代になると蘇我入鹿が蘇我蝦夷をしのぐ実権を握った。境部臣摩理勢との後継者争いが起こった。

目次

境部臣摩理勢の殺害

蘇我馬子推古天皇が死去すると弟の境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)の間で後継者争いが起こる。推古天皇の後継者問題をに加え、蘇我氏の族長位や大臣の地位を、摩理勢と蝦夷のどちらが継ぐかでその争いは激化していた。蝦夷との談合中、意見が衝突したのをきっかけに、蘇我蝦夷は襲撃し、一族も含め、軽の境(奈良県橿原市)の邸宅で殺害した。

後継者争いの詳細

推古天皇は、死ぬ前に田村皇子と山背大兄王の2人を大王後継者に指名し、それぞれに遺言を伝えたが、次期の天皇を決定してはいなかった。両者とも推古天皇の孫の世代にあたる王族に当たる。蝦夷は田村皇子を、摩理勢は聖徳太子への恩顧から、子である山背大兄王を推していた。蝦夷は、摩理勢を殺害することにより、みずからが蘇我馬子の後継者となって山背大兄王を天皇に即位させようとした。

大派王の提案

636年7月、舒明天皇への下に訪れた大臣・蘇我蝦夷に対し、大派王(敏達天皇の皇子、舒明天皇の叔父)が、大臣の勤務態度に問題があるとして勧告と提案を行った。対して蘇我蝦夷はこれを黙殺し、退出した。提案内容は、群臣や官人の朝参に怠惰の風が見えるので、これからは卯の時(午前6時)に宮に参り、巳の時(午前10時)の退出を原則とし、そのためには百官の代表である大臣自身が率先して範を示すべきである、というものであった。