藤原基経|阿衡事件の、政務放棄によって実権を掌握

藤原基経

藤原基経は平安時代に活躍した公卿である。藤原良房の養子となり、人臣初の関白に就任する。宇多天皇との阿衝の紛議の際には、公務を放棄するなどして天皇に圧力をかけ、天皇より力関係があることを内外に示した。

目次

藤原冬嗣の三男

藤原基経は藤原冬嗣の長子である長良の三男であったが、叔房の養子となって藤原北家の宗家を継ぐ。

応天門の変

応天門の変では、藤原良房の命を受けた藤原基経が、左大臣の源信を救う一方で政敵であった伴善男らを追放し、藤原政権確立の基礎をつくった。

陽成天皇

甥の陽成天皇が9歳で即位すると、藤原基経はその摂政となる。しかし、天皇が暴力事件を起こしたため、これを廃立された。光孝天皇を即位させ、光孝天皇が死ぬと臣籍降下(しんせきこうか)していた源定省(さだみ)を擁立、宇多天皇となった。

阿衡事件

887年、宇多天皇が即位した後、藤原基経は関白の詔をうけたが、そのなかの「阿衡」という字をめぐって論争がおこる。阿衡が権力のない名誉職のような立場であったため、藤原基経に一線を退かせるという旨という解釈した者が現れた。その解釈に即して藤原基経は、政務を放棄するという方法で天皇家に対して圧力をかけた。この放棄は半年間続いたが、宇多天皇が折れる形で、勅書を作成した橘広相を処分することで終結したが、藤原一族が天皇家よりも力関係が上であることを示した事件であった。

関白

藤原基経は、娘の温子を入内させて天皇と和解する、人臣として初の関白に就任した。