聖徳太子|十七条憲法,和を以て貴しとす,三宝,三経義疏

聖徳太子 しょうとくたいし

聖徳太子は、用明天皇の皇子として生まれ、幼時から高麗の恵慈法師に学んだ。593年、19歳のとき女帝の推古天皇の摂政となり、国政にあたる。聖徳太子の実績は『日本書紀』が原型となっており、冠位十二階の制を定め、十七条憲法を制定した。また3つの大乗仏典の注釈『三経義疏』(勝鬘経義疏しょうまんきょうぎしょ、維摩経義疏ゆいまぎょうぎしょ、法華義疏ほつけの三点)を著した。寺院に関しては、摂津国難波に四天王字、斑鳩宮に学問所としての法隆寺(斑鳩寺)を建立し、日本の仏教の普及や伝統的な思想を作ったといえる。政治的には中央集権体制の形成・整備や、遣隋使を派遣するなどして積極的に外交を行い、日本の中国からの独立という点で日本史の大きな転換期となった。

聖徳太子
聖徳太子

目次

聖徳太子の生涯

聖徳太子は、574年、用明天皇の皇子として生まれる。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女である。幼時から高麗の恵慈法師に学んだ。当時、仏教の受容をめぐり崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏)との対立が激化していた。そうした状況の中で用明天皇の崩御をきっかけに皇位をめぐる争いが発生した。聖徳太子は、物部氏討伐の軍に加わり、物部氏と戦争状態に陥る。その際、白膠木で四天王の像をつくり、戦勝の祈願と仏塔の造営、仏法の弘通に努めるという誓いを立てたと伝えられている。推古天皇の即位の後、摂政となり、様々な政治改革を行う。遣隋使の派遣(607)、「冠位十二階」(603)「十七条憲法」(604)の制定など、天皇を中心とした中央集権国家体制の整備を行った。思想・宗教としては、百済の僧慧慈に仏教を学び、法隆寺や四天王寺などの寺院の建立、『三経義疏』の経典の購読をなしたとされている。622年,49歳で死去するが、当時の人びとが太子の死を深く悲しんだことが『日本書紀』に記されている。しかし、太子の一家はのちに全滅という悲劇をも迎えねばならなかった。

聖徳太子の思想

聖徳太子は、仏の側から見ると人間はみな凡夫で、欲望にとらわれた愚かな存住であると説く。そのために自己へのこだわりを捨て、他者の立場に立つことが自己を活かすことになる、つまり「和を尊ぶ」ことである。また「十七条憲法」には儒家や法家などの思想も見られる。

十七条憲法

完全ならざる凡人の生き方、人間性の理解という仏教の世俗的な救済性を表現している。これは官吏の心得として制定されたとされるが、仏教を基本として儒教の中国的な価値も交えて記されている。中国に倣った律令の整備は聖徳太子の十七条憲法より始まった。有名な『和を以て貴しとす。さかふること無きを宗とす。』はこの第一条に記されている。なお、和とは、融和の精神のことで『論語』の「和を用いて貴しとなす」の影響が見て取れる。

凡夫の自覚

和を持つには自らが凡夫であることを自覚しなければならない。つまり、欲望にとらわれた存在である、という自覚である。仏から見れば人間はみな等しく凡夫にすぎない。

三宝

三宝とは、仏と仏陀の教え(真理)であり、修行者としての僧伽およびその共同体のことである

冠位十二階

冠位十二階とは、聖徳太子と蘇我馬子によって設定された新しい冠位である。中国の官位制度を参考に設定されており、群臣に対して、上下の身分の差を明確にした。冠位は、儒教の徳目に従い、徳・仁・礼・信・義・音に分けられ、それに濃淡をつけた6色を割り当て区別したものである。国内政治の安定した運営をするのと同時に、中国や朝鮮各国に対し、当時最先端の優れた国家制度を誇示する狙いがあった。

日出づる処の天子

聖徳太子は小野妹子遣隋使に国書をもって隋に派遣した。その国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや。」と書かれている。これは日本の天皇と中国の皇帝が同じ天子であり、国家として同等であり、決して小国や属国ではないことを誇示した。また東にある日本を日が出てくるところの国であり、、西にある隋を日が没するところの国と称したという点で卑下したとも読み取れ、煬帝(ようだい)の怒りを買った。

『天皇記』、『国記』

聖徳太子が蘇我馬子とともに編纂した歴史書である。併せて『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』も作られた。蘇我氏の滅亡とともに大部分が焼失した。

『三経義疏』さんぎょうのぎしょ

『三経義疏』とは、「勝鬘経」、「法華経」「維摩経」という三つの大乗仏教の経典に注釈を加えた書物で、聖徳太子の新選と伝えられるが、定かではない。『三経義疏』には、衆生の救済という聖徳太子の思想が現れており、その後の日本の仏教に大きな影響を与えた。

聖徳太子
聖徳太子

『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』

聖徳太子の伝記集。平安中期。后橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)の逸話を伝える。生前の太子が『世間虚仮、唯仏是真(せけんはむなし、ただほとけのみこれまことなり)』、死後『天寿国(てんじゅこく)』に生まれ変わると常々語っていた。后橘大郎女はこのことを回顧し、その「天寿国」の有様を刺繍した。中宮寺にその一部が残っており、それが「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」であると伝える。

世間虚仮・唯仏是真

世間虚仮・唯仏是真とは、この世の中は空しく仮言のものであり、ただ仏だけが真実であるという意味。聖徳太子が妻に語ったといわれる言葉で、現世への執着を否定し、仏の理に立って生きることを説いたものである。

『霊胃記』

上巻第四話。立ち居振る舞い『僧(ほうし)』のようであった聖徳太子の実績にまつわることを記す。聖徳太子が病んだ乞食(かたゐ)に出会い、着ていた衣を与えたこと、帰り際に見ると、衣だけが残っていたこと、またそれを身に着けた太子を供の者がとがめると、お前たちには理由はわかるまい、と答えたことを記す。その後、乞食は死に太子が葬るが、遺体はどこかに消え、歌が一首残されていた。

太子信仰

聖徳太子への信仰は、太子信仰とよばれ、長く人々に強い崇敬を集めた。民衆間の信仰だけでなく、日本の文学や思想に影響を与えている。
たとえば、中世末期の動乱の中で数々の予言書のうち、その主体が聖徳太子であり、あるいは中世説話の『小栗判官』の物語で、再生した小栗が療養に熊野に赴く際、四天王寺に立ち寄るという形を取っていることなど、聖徳太子が神格化される。


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