聖徳太子

日本史

遣隋使|聖徳太子による隋との外交,小野妹子

遣隋使 聖徳太子が中国の文化や仏教、技術、学問を取り組むため、隋に遣使を派遣したが、彼らを遣隋使といい、数回派遣した。小野妹子に持たせた国書には大国である隋にたいし、冊封体制から抜け、大きな影響を与えた。小野妹子や犬上御田鍬が代表で、...
日本史

蘇我入鹿|山背大兄王への襲撃と乙巳の変

蘇我入鹿 蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷より大臣を継承する。権力を強め、聖徳太子の子である山背大兄王を殺害した。自邸を谷宮門(はさまのみかど)と呼んだ。後継者争いの末、645年、乙巳の変で蘇我派に敵対する中臣鎌足・中大兄皇子の両者によって...
日本史

法隆寺|聖徳太子,仏法興隆の願い,薬師如来像

法隆寺 法隆寺は聖徳太子が、仏法興隆の願いをこめて建設した寺院である。斑鳩の寺とも呼ばれる。607年に大和斑鳩宮に居を移した聖徳太子(34)の命により、宮の西南に隣接している。建設のきっかけは、聖徳太子が父である用明天皇の冥福を祈って...
日本史

広隆寺|泰造河勝によって建立,弥勒菩薩像,聖徳太子

広隆寺 広隆寺(氏寺岡寺(はちのおか))は、聖徳太子の渡来系の側近である泰造河勝(はたのみやつこかわかつ)によって、太秦の地(いまの京都市)に建立された。聖徳太子から賜った仏像、弥勒菩薩像を本尊に氏寺を建立した。泰造河勝が資産の多くを...
日本史

来目皇子|新羅征討計画の将軍

来目皇子(くめ) 来目皇子は、用明天皇の皇子。聖徳太子の同母。大和政権では、軍事部門を担当した大伴氏の配下であった。軍事に明るく、新羅征討計画の将軍として選ばれたが、九州筑紫の中で病にたおれ、遠征はとりやめになり翌年2月、筑紫で没した...
政治

小野妹子|遣隋使,託された日出づる処の天子の国書

小野妹子 小野妹子は第二回目の遣隋使として隋に派遣された。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を煬帝に提出した。このことが中国の冊封体制を受けず、以降、日本は、対等な関係として中国との外交を行うこととなり、朝鮮に...
政治

冠位十二階|聖徳太子,蘇我馬子,隋,身分制度

冠位十二階 604年、聖徳太子と大臣の蘇我馬子によって設定された新しい冠の設定である。前年の603年に小墾田宮(奈良県明日香村)に群臣を召集して、翌年1月を期して新しい冠を制定し、官人への授与を始めることを説明している。中国の冠位制度...
宗教

斑鳩宮(いかるがのみや)|聖徳太子,法隆寺

斑鳩宮 601年着工-613年に建設。(推定)聖徳太子(厩戸皇子、28)によって建設された宮殿。聖徳太子は、斑鳩宮に住んだ。朝鮮や隋との外交的な役割を担いながらも、内政的に政敵である敏達天皇の一族が、大和川をはさんでその南岸に位置する...
日本史

推古天皇(額田部皇女)|日本初の女性天皇,聖徳太子

推古天皇(額田部皇女) 推古天皇(額田部皇女)は、敏達・用明・崇峻の前3代の天皇と同じ世代に活躍した女帝である。40歳前後のときに即位した。父は欽明天皇と母は蘇我堅塩媛(きたしひめ)である。敏達天皇の妃となり、2男5女をもうけた。蘇我...
政治

十七条憲法(憲法十七条)|「和を貴しとし」,聖徳太子

十七条憲法(憲法十七条) 十七条憲法とは、604年、聖徳太子により制定されたと伝えられる日本最古の成文法である。今日の憲法とは異なり、中国をベースとした統一国家を目標に各地の豪族たちも含めて新国家の理想的官僚像を訓示したもので、厳密に...
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