独断のまどろみ
独断論のまどろみとは、ドイツの哲学者カントがヒュームの哲学を学んで、哲学的な独断から目覚まされた体験を語った『プロレゴーメナ』の中の言葉。ヒュームの因果関係の否定、つまり、当時の科学に何の根拠もないというということは、ライプニッツ=ヴォルフの形而上学を学び、またニュートンの説く数学や物理学が科学革命を起こした時代背景の中で、カントにとって衝撃的であった。
イギリス経験論の流れを汲むヒュームは、二つの物体のあいだに原因と結果を結びつける因果律の法則が支配しているという常識的な考え方を否定した。人間が知ることができるのは経験により知覚されたもののみであり、たとえば、りんごが木から落ちるのを見て、「りんごの落下は強風が原因である」というのは感覚的経験からみる、人間の主観的な習慣にすぎない、とした。(真の原因は木の枝が腐っていたからかもしれない。)ヒュームの哲学は更に進んで、物体が外界に実在するとはいえないと考え、物体の実在性を否定した。カントは、このヒュームの哲学的思索に、外界に因果律が支配する物体が実在すると思い込んでいた独断をさまされ、これが因果律の客観性の根拠を先験的な理性の能力に求める批判哲学を構想する契機となった。
ヒュームの哲学
ヒュームの哲学は、「すべての出来事には原因がある」という主張は必ずしも必然的に真ではない、とし、因果関係に一石を投じた。「xはyの原因である」という主張は、Xという概念から演繹されうるものではない。というのも、感覚的経験がわれわれに教えてくれることのすべては、「yは通常xに続いて起こる」ということであって、「yは必ず〔必然的に〕Xに続いて起こる」ということではないのだから。
ヒュームのこの思索は、当時、ニュートンが発見した自然科学において何の根拠づけもない、ということを示唆している。
因果関係に依拠している必然性は、我々が定期的に結びつけている出来事があくまでも心的な作用であり、そのように信じ込んでいるだけだ、とした。
カントは、ヒュームが因果律の無根拠さを「異論の余地のないまでに明らかにした」ことを認めた。
「独断論のまどろみ」とは
このとき独断を指す言葉は、カントが学んでいた、当時ドイツで主流であった、ライプニッツやヴォルフが主流であったドイツ観念論や形而上学であり、また、
ニュートンを代表にする自然科学や数学であった。カント自身もその流れを汲む哲学者であり、形而上学や論理学の教員であり、また敬虔なクリスチャンでもあった。ヒュームがそれらを見事に批判したことから、自ら従来の考え方を批判的に見直し、ヒュームに代表される経験論とライプニッツやヴォルフに代表される合理論との総合を成し遂げる事となる。(カントの認識論)
『純粋理性批判』
「独断のまどろみ」の中にいたカントは、経験を超えてまで真理を発見しようとする理性の能力を問いただすことはなかったが、そこから目が覚めたカントは、人間の理性の活動範囲を批判的に検討すること、そして「そうしたことは形而上学としてそもそも可能なのか」という問いをテーマに『純粋理性批判』や、入門書である『プロレゴーメナ』を書することになる。これはの哲学が批判哲学と言われる所以でもある。