法隆寺
法隆寺は聖徳太子が、仏法興隆の願いをこめて建設した寺院である。斑鳩の寺とも呼ばれる。607年に大和斑鳩宮に居を移した聖徳太子(34)の命により、宮の西南に隣接している。建設のきっかけは、聖徳太子が父である用明天皇の冥福を祈って宮内に造った小規模な仏堂であったが、斑鳩宮造営にともない、それを宮の隣接地に大がかりなものとなった。法隆寺の建築には、柱の中央よりやや下の部分にふくらみがもたせてあり、ギリシアのエンタシス様式が認められる。
目次
若草伽藍、西院伽藍、東院伽藍
法隆寺は大和川のほとり、難波と大和を結ぶ交通の中心で営まれ、その焼亡後、北西の隣接地に第2次法隆寺(若草伽藍)が営まれ、その焼亡後、北西の隣接地に第二次法隆寺(西院伽藍)、ついで東院伽藍が建立された。
薬師如来像
寺院の中心となる金堂に、用明天皇が病に倒れたとき、聖徳太子が発願したという薬師如来像が安置されている。薬師如来像は飛鳥時代の代表的な仏像で聖徳太子と推古天皇が用明天皇の意思をついで作られた。
財源
当時は、王族・有力首長の多くが宮・居宅の近くに寺院を造営したが、寺院の経営は所領からの収入をもとにするため、王族・有力首長による新しい財源を確保を目的とするものであった。法隆寺は、瀬戸内海沿岸部の所領からの収益によって経営された。
焼失
法隆寺は、607年に創建されたが、『日本書紀』には天智天皇のとき670年に全焼したと記されている。ここから、現在の法隆寺は再建されたという説と、建築の様式から創建当初のものであるとの論争があった。1939(昭和14)年に四天王寺式の伽藍配置をもつ若草伽藍跡が発見され、現在の伽藍は当初の飛鳥様式に従って再建されたという説が有力になった。ところが、現在の五重塔の心柱を「年輪年代測定」にかけた結果、594年に伐採されたものだと公表され、再建説は否定されたかに見えた。しかし、同じ方法で屋根材を測定した結果、624~663年という結論が出て、再び再建説に落ち着くこととなった。なお、現在の金堂は1949(昭和24)年に焼失し、その後再
建された。