江戸城の無血開城|徳川慶喜の英断

江戸城の無血開城

鳥羽伏見の戦いに破れ、大坂に戻った徳川慶喜は、江戸を戦火に巻き込むのを避けるため無血開城を決断した。勝海舟は江戸への総攻撃を背景に圧力をかける西郷隆盛にたいし、勝海舟や徳川慶喜の保証を条件に無血開城を申し出、西郷隆盛もこれに同意した。この三者の政治判断により、無駄な内戦を最小限にとどめ、国力の浪費を抑え、新政府の礎を築いた。

徳川慶喜

徳川慶喜

目次

朝廷の動き

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が大坂へ敗走すると、1868年1月7日、朝廷より徳川慶喜追討令発令し、2月9日には、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命された。

勝海舟の戦略

大坂から江戸に戻った将軍の徳川慶喜は、謹慎中の勝海舟を呼び出し、陸軍総裁に任命した。勝海舟は、幕臣の小栗上野介ら親仏派を罷免し、薩長との交戦を促すフランスとの関係を断った。勝海舟の懸念は、フランスがイギリスに対抗は、むしろ薩摩藩とイギリスの接近を促し、内戦を助長するというものであった。次に2月12日には、将軍の徳川慶喜を上野寛永寺大慈院にうつし、将軍の恭順謹慎という形をとった。

山岡鉄舟と西郷隆盛の交渉

1868年3月5日、勝海舟のもとへ旗本の山岡鉄舟が来訪する。要件は、徳川慶喜から駿府の東征軍に対し恭順を伝えるように命ぜられたことの相談であるというものであった。3月8日(あるいは、9日)、山岡鉄舟は、勝海舟の手紙と薩摩藩の隠密・益満休之助をともない、駿府の西郷隆盛と会見する。益満休之助は西郷隆盛の指示で、江戸撹乱のために辻斬り、放火などを行っていた人物で、捕らえられ勝海舟の管理下にあった。その上で、勝海舟手紙には、暴力的な行為が正義ならば皇国は瓦解するという西郷隆盛の統治者としての責任を問う内容が記されており、西郷隆盛にとって苦しいものであった。山岡鉄舟との交渉末、江戸への総攻撃の前に、西郷隆盛勝海舟で会見を行うことが決まる。

勝海舟

勝海舟

東征軍

1868年2月3日、徳川慶喜を数とする天皇に詔が発せられ、東征大総督に有用川仁三を擁し、東海道・東山道・北陸道のルートで江戸に向かうため、京都に東側に位置する東征軍が編成された。このときの東山道鎮撫総督には岩倉良美の子である具定であった。

江戸城の無血開城

3月12・13日、東征軍は池上本門寺・内藤新宿・板橋から江戸を包囲し、15日を総攻撃の日と決定したが、山岡鉄舟が西郷隆盛との交渉に成功し、3月15日を前に勝海舟との会見が決定した。3月14日、薩摩藩の屋敷で勝海舟西郷隆盛が会談を行った。徳川慶喜が隠居し、水戸で謹慎することを条件に江戸城の平和的開城が正式に決定した。江戸は直前のところで焦土化を免れた。4月1日には、江戸城が新政府軍に明け渡され、上野寛永寺で謹慎していた前将軍の徳川慶喜は、水戸藩へと向かう。

西郷隆盛の江戸城への入城

4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁、同副総裁の柳原前光、西郷隆盛らの参謀を従え、非武装により江戸城へ入城した。西丸で徳川氏の処分と江戸城明け渡し条件を田安慶頼に伝える。4月11日、徳川慶喜、午前3時ごろ寛永寺大慈院を出て、水戸へ向かう。江戸城の明け渡しのため、新政府の参謀が薩長ほか5藩の兵を率いて入城した。

江戸城開城の地

江戸城開城の地

徳川慶喜の英断

徳川慶喜は、内乱を避けるため戦争を避け、一貫した静観を続けた。無駄な戦争を避け、日本の内戦を回避し、国力を温存したまま、新政府に明け渡す。それにより、もっとも日本にとって懸念材料であった外国からの植民地を回避する、という高度な政治判断があった。そのため、フランスから輸入した兵器や軍艦はその後の新政府に引き継がれ、江戸に住む多くの庶民の犠牲は最小限となった。

今回の事態はまさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分でも受ける覚悟でいる。なんの罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは、やめてほしい。すべての罪はこの慶喜にある。罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。

西郷隆盛の判断

徳川慶喜が大政奉還後も新政府にたいし、影響力をもつのを嫌ったため、西郷隆盛は新政府から徳川慶喜を完全に排除することを狙っていた。極めて強硬な態度をとっていた。江戸への総攻撃を決定していたが、勝海舟が徳川慶喜の救済と総攻撃の中止のかわりに江戸城無血開城を渡すとの交渉を持ちこむと、西郷隆盛は方針を変え、総攻撃を取りやめ、平和的に早期の内戦を取りやめることを決定した。西郷隆盛にとっても、無駄な内戦を避けること、できるだけ血を流さないことを目的としていたからだと考えられる。

無血開城への現実

イギリスは薩摩藩に、フランスは幕府に、各々の後ろ盾になり、日本の内戦に関わることを促すかのような態度をとっていた。このことに徳川慶喜や西郷隆盛勝海舟も十分に承知しており、欧米が介入した後に植民地政策を行うことは避けなければ成らなかった。また、西郷隆盛は、無駄に戦火を広げ勝利したとしても新政府がその後の江戸の復興予算を出すことは容易ではなかった。また情勢に関しても、優位であるように見えて、薩摩藩でも倒幕派は少数派であり、戦力をみても旧幕府軍の軍事力は圧倒的なものであり、薩摩藩は優位な状況とはいえなかった。このような複雑な状況から、無血開城が実現できたと考えられる。