明六社|日本最初の学術結社,天賦人権論,森有礼,他

明六社

明六社は、(明治6)年に森有礼の発議により結成された啓蒙思想団体である。明治6年の結成にちなんで明六社と名づけられた。福沢諭吉・中村正直・西周・津田真道・加藤弘之・西村茂樹など当時の代表的な啓蒙思想家や官僚が参加し、日本の政治に深く関わった。機関誌『明六雑誌』を発行して、西洋近代の思想・文化を紹介し、国民の啓蒙につとめた。明六社は、森有礼はアメリカやイギリスの学術結社をベースに作成した、わが国最初の学術団体で、日本学術会議の源流ともいわれる。

目次

天賦人権論

天賦人権論とは、人間は本質的に平等であり、何人も侵せない自由・平等・幸福追求の権利を生まれながらに持っているという思想をいう。市民革命の根底に流れている自然権思想を、儒教における天・天道の観念を媒介に受容してこの名前が冠された。明六社の中心的な思想となる。

森有礼

森有礼は明六社の創始者で、幕末のイギリス留学経験から日本の啓蒙活動にかかわるとともに、明治新政府の官僚として早くから活躍する。主著は『妻妾論』である。
薩摩藩(鹿児島県)藩士で、幕末には英米に留学しキリスト教に出会い、思想としてはキリスト教をベースにある。明六社は、森がアメリカなどの学術結社を日本にもつくろうと、福沢諭吉らの啓蒙思想家に呼びかけて成立したものである。彼を「日本産西洋人」と評したという伊藤博文の強い推挙まで文部大臣になり、1886(明治19)年、学校令を制定してピラミッド型の国家主義的教育体制を確立し、日本を近代化・富強化しようとした。しかし、国粋主義者の反感をかい、大日本帝国憲法公布の当日暗殺された。

福沢諭吉

福沢諭吉は明治時代の代表的な啓蒙思想家のひとりで、豊前(大分県)の中津か藩の下級武士の家に生まれで身分が低いゆえに不遇であった父親を思い、「門閥制度は親の敵などでござる」と語り、封建制度を批判した。欧米の文明を見聞して日本の近代化の必要を説き、1868年に慶應義塾を開いた後に明六社に参加した。

西周

西周は、西洋のフイロソフイを「哲学」と訳して紹介した人物で明六社に参加した。コントJ.S.ミルなどの思想を日本にもち込む一方で、学者は現実と距離をおいて客観的に見る立場であるという考えを貫いた。

中村正直

中村正直は、明治時代の啓蒙思想家で教育者である。江戸に生まれ、儒学を学び、昌平坂学問所教授になった。一方で、洋学をも研究している。1866年には、イギリスに留学した。維新後、東京女子師範学校、ついで東京帝国大学教授となる一方、明六社にも参加し、個人主義道徳を説いて啓蒙思想の普及につとめた。キリスト教の洗礼を受け、一時熱心な信者であったが、晩年にはキリスト教から離れた。彼が翻訳したスマイルズの『西国立志編』やJ.S.ミルの『自由之理主』は、啓蒙書として明治初期に広く読まれた。

津田真道

津田真道は明治時代の法学者で明六社の一員である。津山藩(岡山県)藩士で、国学および儒学から洋学に転向し、1862年に西周とともにオランダに留学した。維新後、政府に仕えて刑法をはじめ各種の立法に尽力した。彼の思想はコントの実証主義の影響を受けているが、きわめて唯物論的な点に特徴がある。

加藤弘之

加藤弘之は、明治時代の思想家で官僚でもある。明六社にも参加した。主著は『国体新論』、『人権新説』。但馬出石藩(兵庫県)藩士で洋学を学び、蕃書調所に出仕、立憲制を紹介した。維新後は明六社に参加して天賦人権説を主張、啓蒙思想家として活躍した。東京帝国大学総長をつとめて大学教育の基礎をつくったが、「我輩人民モ亦天皇ト同シク人類」(『国体新論』)とまで言った。1882年の『人権新説』では一転して天賦人権論を否定し、論争となった。進化論の優勝劣敗・生存競争に基づいて国家の利益を優先する国権論を展開し、自由民権運動に反対した。