文久の改革|一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に

文久の改革

1862年、文久の改革は勅命により実施された幕政改革である。大きな目的は人事で井伊直弼桜田門外の変で殺害されたのをうけ、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職、松平容保を京都守護職に認容し、主流派が一橋派に変わった。その他、軍事体制の西欧化や洋学研究などを進めた。特に文久の改革に外様大名であった薩摩藩の介入や参勤交代の緩和は、幕府の衰退を象徴している。

松平容保
松平容保

目次

人材の登用

文久の改革の主目的は人材の登用にあった。安政の大獄で弾圧されていた徳川慶喜、松平慶永を引き上げることであった。1862年5月、徳川慶喜を将軍補佐につけ、徳川(一橋)慶喜は松平慶永を大老とし幕政を行わせるよう提言している。結果、徳川慶喜は将軍後見職、松平慶永は政事総裁職(大老格)に着いた。また、会津藩主の松平容保は、京都守護職についた。

参勤交代の緩和

3年1勤、江戸在府100日とする在府期間の短縮させた。また江戸に妻子を済ませるように義務づけられていたが、それを撤廃した。幕府の影響力の低下が見られる。

洋学研究

蕃書調所を、洋書調所と名前を変えて、洋学の研究を推進させた。また当時幕府の学者であった西周らをオランダに送った。

軍制改革

軍制改革には、西洋式軍制・兵制、幕府陸軍の設置の採用を行った。

兵賦令

旗本領から農兵や兵賦金を取り立てる兵賦令が出された。

生麦事件

文久の改革を終えた島津久光は、8月3日、江戸を出発し帰路につく。その日の午後2時ごろ、横浜郊外の生麦村にさしかかったとき、薩摩藩の行列の前を大名行列の礼儀を知らなかったイギリスの商人が馬で横切った。この非礼に対し、薩摩藩の者が斬りかかった、いわゆる生麦事件が起こった。上海在留商人リチャードソンが死亡した。同行のマーシャルとクラークの2人は傷を負い神奈川のアメリカ領事館に逃れ、ボロデール婦人は軽い傷を負ったものの居留地に逃げ帰った。
事件後、イギリスは、幕府に対して9万ポンドの賠償金と犯人を逮捕し目前で処刑することを要求。これに対し幕府は、1年の東禅寺事件とあわせて1万ポンドの賠償金を支払うことになるが、イギリスは同時に薩摩藩に対しても賠償要求するが、薩摩藩がこれを無視したため、後に薩英戦争がおこる。


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