律令(律令制度)|奈良時代,大宝律令

律令

律令とは日本が唐にならって取り入れた制度で、天皇を中心とした統一国家を作り出した。律は、現在の刑法・刑事訴訟法に相当し、刑罰を詳細に定めた令は現在の行政法・民法に相当し、官制・税制・田制・兵制・学制などを規定している。律令によって、天皇を中心とする中央集権国家が成立したが、その改革は徹底されず、唐の模倣であったため国内でのずれが生じ、やがて、律令体制は貴族政治や荘園制度、武士の発生につながっていった。

目次

律令国家

律令は、奈良時代を経て平安時代中期の10世紀ころまで行われた。この律令制度にもとづいて政治を行った古代国家を律令国家と呼ぶ。10世紀以後は、事実上、無効となったが、律令は朝廷の内部で生き続け、明治のはじめまで存続していた。

律令の必要性

大化改新は、内政的には、地方の豪族の台頭を押さえ、中央律令の整備における氏姓制度を順調に行うことであった。またた外政的には、唐と結ぶ新羅との外交・軍事摩擦に対抗するための改革であった。そのため地方に対する支配力を強化し、中央豪族を貴族化する必要があった。

豪族の貴族化

律令体制により、かつての豪族による土地・人民の私有は廃され、土地は公地として班田収授法により公民に班給されたが、かわりに公民が租税を負担し、かつての豪族は位階・官職や位田・職田・封戸などを与えられて、貴族として律令官人組織に組み込まれた。

唐の律令の模倣

日本の律令は唐の律令の模倣であっため、儒教の影響を強く受けている。そのため儒教の徳地主義や天皇の絶対性、官吏の優越性が取り入れられ、天皇の絶対性、官吏の優越性が全面に出ている。また、形式的な日本の現実に適合させるため、多くの改変を行った。特に天皇の存在は律令を超えた、神格化した存在であった。

  1. 神祇官を太政官から切り離し独立
  2. 官制の簡素化
  3. 律の刑罰の軽減
  4. 班田収授法は均田法と著しく異なっていた
  5. 郡司には地方土豪を任命

弘仁格序

律は懲粛を以て旨と為し、今は勧誠を以て本と為す

近江令

近江令は天智天皇の時に出され、671年施行。選定は藤原鎌足ら。近江令は現存しないばかりでなく、その制定についても疑問がもたれている。令22巻。

飛鳥浄御原令

飛鳥浄御原令は681年、天武天皇のときに編纂され、689年に持統天皇によって施行された。『日本書紀』の記事によってそのごく一部のみ残されている。令22巻。

大宝律令

大宝律令は、701年、文武天皇のときに設定され、702年に施行された。選定者は刑部親王、藤原不比等である。大宝律令において律令制定は完成したといえる。現存はしない。律は6巻、令は11巻。

養老律令

養老律令は、718(養老2)年、元正天皇のとき、藤原不比等らによって大宝律令に修正が加えられたもので、757年、孝謙天皇のときに施行された。その内容は大宝律令とほぼ同じ者であると考えられている。令は現存しているが、律は一部しかのこされていない。養老律令は、『令集解』(りょうのしゅうげ)や9世紀に編纂された『令義解』(りょうのぎげ)など、養老令の注釈書によって、律の一部分を除いて知ることができる。律は10巻、令は10巻。

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