平将門
平将門は、平安時代の武将である。下総国豊田の出身とされているが定かではない。父の遺領をめぐる内紛と、国司と郡司との紛争への介入から関東で兵を挙げ、常陸・下野・上野の国府を武力攻略した。下総の猿島を内裏とし、「新皇」と称して威を張ったが、その50日後、平貞盛・藤原秀郷で構成される征伐軍により、戦死を遂げた。死後、庶民を守った守り神として歌舞伎などに扱われ、民衆に親しまれた。
平将門の略年
931年 伯父の平良兼と対立
935年 伯父の平国香らに攻められるが、撃退する
936年 再び良兼らと衝突
938年 源経基と対立
939年 源経基に謀反を密告される。同年、常陸・下野・上野の国府を制圧し「新皇」を自称する
940年 征討軍が派遣され、平貞盛・藤原秀郷に攻められ、戦死
平安時代中期の状況
平安時代中期は、それまでの中央集権の律令制度が崩れ、受領国司と在地の勢力との摩擦が起り、大和朝廷の警察権力が及ばなくなった。そのため、脱税や横領が横行した。また当時の状況から、大和朝廷は地方の状況を理解することができなかった。このことから大和朝廷と平将門との摩擦が大きくなり、将門の乱につながる。
平良将
平将門の父の平良将は下総で勢力を伸ばし、豊田郡一帯を治めていた。武勇に優れ鎮守府将軍を任された一族の中でその筆頭に出た。平将門は官位をもらうべく従兄弟にあたる平貞盛とともに京に入る、平将門の後ろ盾は藤原忠平であって昇進に有力であったが、平貞盛が先に昇進した。結果、忠平の家人を務めるにとどまるが、そうしたなかで父の平良将の死に、仕官しないまま父の遺領を引き継ぐため板東に帰郷する。
平将門の帰郷
平将門は帰郷したものの、留守をしている間に、伯父の国香が豊田の土地を占領していた。やむなく平将門は、猿島郡石井に移るが、ここでも平国香らは平将門に圧力を加え、軍事衝突する。
935年2月平国香・平良兼の奇襲
935年、平国香・源護一族が平将門を奇襲した。平将門は劣勢に甘んじたものの、次第に逆襲に転じ、平国香を破り、敗死に追い込む。仕官しないままは以前同じく京にはいった平貞盛の父親に当たる。
936年6月 下野国付近での衝突
936年、源護が平将門に三人の息子が殺されたと訴え、平将門を朝廷に召喚状が下る。源護は平良兼、平国良、平良正と縁故関係にあり、策謀の上、平将門を呼び出した。下野に進出した平兼香、平良正、平偵盛らを下野国付近で衝突するが、それを制する。無事、平将門の言い分は、朝廷に認められている。
937年 追捕官符
相次ぐ攻撃に平将門は逆に大和朝廷に訴え、大和朝廷は追捕官符を出し、大和朝廷はこの動乱を平将門の武力をもった解決を望んだ。
937年8月 子飼の渡しの合戦
常陸と下総の境界付近で、祖父の平高望と平良将の霊像を掲げ突進してくる平良兼と衝突するがやむなく敗走、再起を図る者の、堀越の渡しで再度敗れる。
937年10月 常陸国真壁
常陸国真壁で平良兼の別邸・服織の宿を攻める。
939年 平良兼の死
平良兼の死を持って一族の内紛は終焉する。
938年2月 武蔵国の争い
興世王と源経基の不正にたいし、武蔵武芝が反発する。これに怒った興世王と源経基は武蔵武芝を襲撃し、略奪を試みる。この武蔵国府の争いを自ら調停するため、兵を率いて赴くが、不調に終わり、源経基が京へ敗走する。京へ敗走した源経基は平将門が謀反を考えているという告発をする。平偵盛もこれに同調、朝廷から召喚官符が下る。平将門はこれを無視し、朝廷は不満と疑惑は深まることになる。
939年11月 藤原維幾
常陸国府の争いに介入する。藤原維幾が平将門に助けをもとめ、常陸国府に向かうが、国司とともに平偵盛と軍事衝突になる。常陸国府を焼き払い、。常陸国府の刻印と倉の鍵を奪う。行政権の象徴であり、国家への反逆を意味する者であった。この時点で関東の大将の地位を築きあげた。
939年12月 関東8か国の征圧
上野国府を占拠し、関東8か国を征圧する。このころ朝廷が恐れる神や怨霊を後ろ盾に自ら新皇を名乗り、独立政権を樹立する。明確に都の攻略をあげた。
940年2月 戦死
挙兵した藤原秀郷・平偵盛の連合軍を討つため、下野に向かうが敗走する。下野から追ってきた。藤原秀郷・平偵盛両軍との合戦中に流れ矢にこめかみを射抜かれ戦死した。940年2月14日の夕刻であった。新皇宣言からわずか2ヶ月であった。
怨霊 平将門
東京大手町一丁目一番に平将門の首塚があるが、祟りを起こすというミステリースポットで有名である。斬首された首が宙を舞ってここに行き着いたと言われている。昭和の初め、政府が大蔵省を建設しようとすると大臣や関係者に死者が続出し、戦後、GHQが工事をはじめるとブルゾーザーが横転したという伝説が残っている。