平塚らいてう|元始、女性は実に太陽であった。

平塚らいてう

平塚らいてうは、大正・昭和期の代表的な女性解放運動家である。主著『現代と婦人の生活』。日本におけるフェミニズム運動の先駆者であり、思想家、作家、そして社会運動家である。学生時代から禅などの宗教・哲学に強い関心をもち、また22歳の時には所属していた文学会の講師と恋愛し、心中未遂事件と騒がれるなど奔放な性格であった。25歳の時、大正デモクラシーの高まりの中で雑誌『青鞜』を発刊し、2年後、論文「新しい女」を発表する。その後、市川房枝(1893~1981)・奥むめお(1895~1997)らとともに「新婦人協会」を設立し、女性の政治結社・集会の自由を認めさせる運動をおこし、女性参政権獲得運動を展開するなど、わが国における進歩的・組織的な女性解放運動を展開した。この「新しい女」としての自己主張は、大正デモクラシーに支えられ、女性解放運動の新しい出発点となった。平塚らいてうはスウェーデンの思想家エレン=ケイ(1849〜1926)の影響を受け、組織的に女性解放運動をおこした最初の人物であり、女性運動家・思想家の先駆者として評価される。

生い立ちと教育

平塚らいてう(本名:平塚明)は1886年、東京府東京市麹町区に生まれた。父は明治政府の官僚で、裕福な家庭で育った。女子高等教育の草分けである日本女子大学校(現在の日本女子大学)に進学し、哲学や文学に関心を持つようになるが、当時の日本において女性が高等教育を受けることは珍しく、彼女は早くから知的・思想的な自立を志していた。

青鞜社の設立

1911年、平塚らいてうは文芸雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の巻頭文「元始、女性は太陽であった」で一躍注目を浴びる。これは女性が従属的な存在ではなく、元来、自由で創造的な力をもっていたという主張である。『青鞜』は多くの女性知識人を結集させ、女性の自己表現の場となったが、保守的な社会からの批判も強く、発禁処分も経験している。

恋愛と同棲生活

平塚らいてうは、恋愛と結婚に関しても当時としては極めて先進的な思想を持っていた。画家・奥村博史との事実婚を通じて、自由恋愛を実践し、婚姻制度にとらわれない女性の生き方を提唱した。彼女の生き方は物議を醸したが、同時に女性が自己の感情と意思で人生を選択することの可能性を示した。

婦人運動への参加

1920年代以降、平塚らいてうは婦人参政権運動や母性保護論争、平和運動などに深く関わるようになる。特に市川房枝とともに「新婦人協会」を設立し、女性の政治的権利獲得に向けた活動を展開した。彼女は女性の公民権の獲得を、社会改革の中心課題として位置づけたのである。

母性保護論争と思想的転換

1920年代前半には、社会主義フェミニストである山川菊栄らと母性保護論争を繰り広げた。平塚らいてうは、出産や育児を社会が支援する必要性を訴え、国家的保護を主張した。一方、山川らは女性の経済的自立を優先すべきとした。らいてうの主張はその後の福祉国家論にも影響を与えた。

戦後の活動と晩年

第二次世界大戦後、平塚らいてうは一時活動を離れていたが、やがて平和運動に参加するようになる。戦争体験を通して、彼女は非暴力と人権の重要性を強調し、日本の再建には女性の積極的な参画が不可欠であると訴えた。1961年に75歳で逝去するまで、思想家として多くの著作を遺した。

新しい女の誕生

平塚らいてうは封建的な女性観(良妻賢母主義に代表される古い因習)から自己を解放し、自由で自律的な女性の生き方や覚醒することを求めた。参政権や集会の権利はもちろん、女性としての強烈な希求を訴える者であった。平塚らいてうが提唱した女性観は「新しい女」の誕生として大きな影響を与えた。

『青鞜』(せいとう)

『青鞜』(1911 明治44年)とは、平塚らいてうを中心とする女性文学者団体の青踏社が発行した雑誌である。創刊号に「元始、女性は実に太陽であった」という言葉が掲げられた。封建的な道徳に対する女性自身の意識の変化と、女性の社会的地位の向上を訴えた。

女性は実に太陽であった

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。

私は少しも恐れない。

女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
そして私は少しも恐れない。

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