岩瀬忠震|日米通商条約,安政の大獄

岩瀬忠震

岩瀬忠震は幕末期の幕臣である。海防掛として外交問題を取り仕切る。水野忠徳・小栗忠順と共に「幕末三傑」と称せられる。「忠震」は「ただなり」と読む。初期の幕末外交史は岩瀬忠震の足跡に負うところが大きい。日米修好通商条約の交渉役を担う。

岩瀬忠震

岩瀬忠震

目次

生誕

文政元年(1818)、徳川家の旗本である設楽貞丈の三男として江戸で生まれた。天保5年(1834)、旗本の岩瀬忠正の養子となり、幕府に仕えることになる。

海防掛としての責務

安政元年(1854)、老中の阿部正弘に抜擢されて目付となる。さらに、海防掛として講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の創設に尽力する。「海防掛」とは専任の役職ではなく、勘定奉行・勘定吟味役・大目付・目付などから、海防や外交関係に心得がある者が選ばれた。岩瀬忠震以外では、例えば、勘定奉行の川路聖謨、目付の大久保忠寛(一翁)、長崎在勤の永井尚志などがいる。安政5年(1858)に外国奉行の設置で廃止されることになる。
人材登用の面でも力を尽くし、勝海舟を阿部正弘に進言して引き立てたのは岩瀬忠震である。岩瀬忠震は開国論を唱え、外交の第一線で活躍する開明派の幕臣であった。

日米修好通商条約

日米修好通商条約

日米通商条約

安政3年(1856)、アメリカ総領事のハリスが伊豆下田に到着し、日本との通商条約を求めてきた。岩瀬忠震は下田奉行と共に交渉し、幕府に通商条約を結ぶべきであることを説いた。
安政4年(1857)、長崎の責任者及び貿易事項の調査を行なうために長崎へ向かう。同地にて、長崎奉行と共にオランダのクルチウスと交渉して日蘭追加条約を結ぶ。さらに、ロシア使節のプチャーチンと日露追加条約を結び、アメリカ総領事のハリスと日米修好通商条約草案を審議した。
安政5年(1858)、老中堀田正睦が条約勅許奏請(欧米諸国との通商条約調印について天皇から許しをもらおうとすること)のために京都に向かうのに同行した。

 
 

安政の大獄、そして最期

岩瀬忠震は、徳川家定の次代を担う将軍を誰にするかという問題(将軍継嗣問題)について、一橋慶喜(徳川慶喜)を推しており、同じく一橋派の越前藩などと緊密に連絡を取りながら目的を果たそうとしていた。
しかし、安政5年(1858)、次期将軍に徳川慶福(徳川家茂)を推す井伊直弼が大老に就任したことでその目的は果たせなくなる。岩瀬忠震は井伊直弼の大老就任に反対したため、睨まれることになったが、当時の外交問題を担っていたので、一時期は処罰を免れていた。
アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの修好通商条約締結(安政の五カ国条約)が全て完了した僅か数日後に作事奉行に左遷される。その後、井伊直弼による反対派への大弾圧(安政の大獄)が始まる。
安政6年(1859)、罷免されて俸禄まで召し上げられたうえに差控(謹慎)に処せられた。それ以来閉居し続けて、文久元年(1861)に赦免されないまま死去した。

参考文献

『国史大辞典』「岩瀬忠震」(執筆:吉田常吉)。
後藤敦史『開国期徳川幕府の政治と外交』(有志舎、2014年)。
後藤敦史「岩瀬忠震と幕末外交」(『明治維新史論集1 幕末維新の政治と人物』所収)。

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