岩瀬忠震|安政五カ国の条約を締結した幕末の開国論者

岩瀬忠震

岩瀬忠震(いわせ ただなり)は、日本の幕末期に活躍した江戸幕府の旗本であり、海防掛として卓越した外交手腕を発揮した政治家である。列強諸国との交渉において、日本の主権を維持しつつ近代国際社会への扉を開いた功績は極めて大きい。特にタウンゼント・ハリスとの交渉による安政の大獄によって表舞台から去った。その先見性と愛国心は、勝海舟ら後の明治維新を支えた人物たちからも高く評価されている。水野忠徳・小栗忠順と共に「幕末三傑」と称せられる。

岩瀬忠震

岩瀬忠震

出自と学問への研鑽

文政元年(1818年)、岩瀬忠震は旗本・設楽貞丈の三男として江戸に生まれた。天保5年(1834)、岩瀬忠行の養子となり、岩瀬家を継ぐこととなる。彼は幼少期から学問において非凡な才能を示し、幕府の昌平坂学問所では寄宿舎の長を務めるほどの秀才であった。当時の学問の主流であった朱子学のみならず、実学や海外情勢にも強い関心を持ち、広く知識を吸収したことが、後の外交交渉における論理的な思考の基礎となった。その才覚は老中・阿部正弘の目に留まり、異例の速さで出世を遂げ、海岸防御御用掛などの要職を歴任することとなった。岩瀬忠震の登用は、能力主義を重視した阿部政治の象徴的な人事の一つであり、動乱の時代における幕臣のリーダーシップを期待された結果であった。

海防掛としての責務

安政元年(1854)、老中の阿部正弘に抜擢されて目付となる。さらに、海防掛として講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の創設に尽力する。「海防掛」とは専任の役職ではなく、勘定奉行・勘定吟味役・大目付・目付などから、海防や外交関係に心得がある者が選ばれた。岩瀬忠震以外では、例えば、勘定奉行の川路聖謨、目付の大久保忠寛(一翁)、長崎在勤の永井尚志などがいる。安政5年(1858)に外国奉行の設置で廃止されることになる。人材登用の面でも力を尽くし、勝海舟を阿部正弘に進言して引き立てたのは岩瀬忠震である。岩瀬忠震は開国論を唱え、外交の第一線で活躍する開明派の幕臣であった。

 

外交交渉と日米修好通商条約

安政3年(1856)、アメリカ総領事のハリスが伊豆下田に到着し、日本との通商条約を求めてきた。安政4年(1857年)、岩瀬忠震は目付および外国奉行に就任し、アメリカ総領事であるハリスとの交渉に臨んだ。彼は単に要求を呑むのではなく、国際法や貿易の仕組みを迅速に理解し、対等に近い立場での交渉を試みた。岩瀬忠震が主導した交渉過程においては、以下のような重要な項目が協議された。

  • 神奈川、長崎、新潟、兵庫の五港の開港および江戸・大坂の開市
  • 自由貿易の原則の確立と関税自主権の交渉
  • 居留地の設置と領事裁判権の容認(当時の不平等条約の側面)
  • キリスト教信仰の黙認と寺院の保護

この交渉において岩瀬忠震は、強硬な態度を崩さないハリスに対し、論理的な反論を展開しつつも、日本の孤立を防ぐためには開国が不可欠であると確信していた。彼は井上清直と共に全権として条約案をまとめ上げ、勅許を得られないままの調印という苦渋の決断を下すこととなったが、これが結果として日本を戦禍から救い、植民地化の危機を回避する一助となったのである。

日米通商条約

同地にて、長崎奉行と共にオランダのクルチウスと交渉して日蘭追加条約を結ぶ。さらに、ロシア使節のプチャーチンと日露追加条約を結び、アメリカ総領事のハリスと日米修好通商条約草案を審議した。安政5年(1858)、老中堀田正睦が条約勅許奏請(欧米諸国との通商条約調印について天皇から許しをもらおうとすること)のために京都に向かうのに同行した。

将軍継嗣問題と一橋派への傾倒

岩瀬忠震は外交のみならず、幕府の内政における後継者問題でも重要な役割を演じた。13代将軍・徳川家定の継嗣を巡り、彼は英明な指導者を求めて徳川慶喜を推す「一橋派」に属した。岩瀬忠震は、列強の圧力に立ち向かうためには強力なリーダーシップを持つ将軍が必要不可欠であると考え、橋本左内や薩摩藩の島津斉彬らと連携して工作活動を行った。対する南紀派(徳川慶福擁立派)との対立は激化し、幕府内部は二分される事態となった。この政治闘争において岩瀬忠震は、単なる門閥主義を排し、実力本位の幕政改革を志向していたが、その急進的な姿勢は保守的な譜代大名らの反感を買うこととなった。

大老・井伊直弼との対立と失脚

安政5年(1858年)、大老に就任した井伊直弼は、独断で条約調印を断行するとともに、一橋派の粛清を開始した。これが世に言う安政の大獄である。岩瀬忠震は、井伊の強権政治に対して正面から異を唱え、勅許を得ないままの条約調印の責任を問われる形となった。実際には、岩瀬忠震の卓越した外交手腕と一橋派としての政治活動を恐れた井伊による排除であったとされる。彼は外国奉行を罷免され、さらには作事奉行という閑職に左遷された後、永蟄居を命じられた。江戸郊外の向島での隠居生活を余儀なくされた岩瀬忠震は、政治の表舞台から完全に抹殺されることとなったのである。

晩年と悲劇的な最期

隠居後の岩瀬忠震は、「櫟斎(れきさい)」と号し、書画や詩歌に没頭する静かな生活を送った。しかし、国を思う情熱が消えることはなく、蟄居中も海外の動向や日本の将来を憂慮し続けていたとされる。文久元年(1861年)、岩瀬忠震は44歳の若さで病没した。彼の早すぎる死は、幕府にとって有能な外交官を失ったことを意味し、その後の混迷する対外交渉において大きな痛手となった。岩瀬忠震の死後、彼が作成した外交文書や建白書は、その精緻さと先見性から後の明治政府の外交官たちによっても参考にされることとなった。以下に、彼の人物像を象徴する評価をまとめる。

評価者 評価内容
ハリス 「日本の役人の中で最も賢明で、誠実な交渉相手であった」と回想。
勝海舟 「岩瀬が存命であれば、江戸幕府の最期も違ったものになっただろう」と惜しんだ。
福澤諭吉 その開明的な思想と外交的貢献を高く評価している。

岩瀬忠震の歴史的意義

岩瀬忠震が遺した最大の功績は、日本が「万国公法」という国際秩序の中に、武力衝突を避けて平和的に参入するための道筋をつけたことにある。彼の外交スタイルは、相手国の主張を理解した上で自国の利益を最大限に確保するという、極めて現代的なものであった。岩瀬忠震が目指した日本は、攘夷のような感情論に走るのではなく、貿易を通じて国力を蓄え、世界と対等に渡り合う国家であった。非業の死を遂げたものの、彼の蒔いた種は明治維新後の日本の急速な近代化として結実することとなった。今日においても、岩瀬忠震は幕末が生んだ最高の官僚の一人として、歴史家や外交専門家から尊敬を集め続けている。

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