山県有朋(山縣有朋)|奇兵隊,戊辰戦争,日清戦争

山県有朋

天保9年(1838)~大正11年(1923)。長州藩(現在の山口県)の出身。幕末期に奇兵隊士などとして活動し、明治・大正時代には政治・軍事の最高指導者となった一人。内務大臣・内閣総理大臣などを歴任し、「山県閥」を形成する。晩年は「元老」として政界に強い影響力を持った。

目次

松下村塾

山県有朋は、天保9年(1838)閏4月22日に萩城下川島村(現在の山口県萩市川島)の下級武士である山県有稔と松子の間に生まれる。安政5年(1858)に長州藩から京都に派遣されて諸藩の人物たちと交流し、この時期に吉田松陰の門下生などとも友となり、その後入江九一の勧めで松下村塾に入門した。

奇兵隊への参加

文久2年(1862)に江戸へ行くが、長州藩の藩論(政治方針)が「破約攘夷」(通商条約の破棄を行なって外国勢力を追い払うことを目的とする)に決定したことで長州藩に戻る。長州藩の外国船への砲撃とアメリカ・フランスによる報復攻撃への迎撃に加わる。戦後に高杉晋作が組織した奇兵隊に参加し、後に軍艦となる。

八月十八日政変

文久3年(1863)の「八月十八日政変」で長州藩は京都から追放され、元治元年(1864)の「禁門の変」で京都に進撃した長州藩は敗北をし、御所に向かって砲撃した罪で長州藩は「朝敵」となった。この直後、四国連合艦隊の報復攻撃でも長州藩は惨敗した。山県有朋もこの戦闘で負傷した。

第一次長州征伐

「朝敵」となった長州藩に幕府軍を中心とした軍勢が迫った。「第一次長州征伐」では、幕府に恭順の姿勢を見せる長州藩重臣たちにより降伏した。幕府に恭順の意を示すことを良しとしない高杉晋作は長州藩を変革するためにクーデターを決意し、山県有朋が統率する奇兵隊などに協力を求めたが、山県有朋は最初動かなかった。しかし、高杉晋作のクーデターが大成功すると、山県有朋は奇兵隊を率いてこれに参加し、遂に長州藩の体制を変革することに成功した。

幕長戦争

慶応元年(1865)、幕府は長州藩の反抗的な態度を見てとると、再び長州征伐を計画・布告した。薩摩藩の協力関係を得て、慶応2年(1866)に「幕長戦争」が起こった。山県有朋は奇兵隊を率いて小倉口(九州方面)で戦闘を繰り広げた。結果的に幕府は戦果をあげるどころか各地で敗北・苦戦を強いられて撤退していった。
慶応3年(1867)、山県有朋は京都探索を命じられて薩摩藩邸に潜伏して活動を行なった。この時期に西郷隆盛大久保利通などと交流している。6月には、薩摩藩の国父として実権を握っていた島津久光に謁見して薩摩藩側の国事に関する覚悟が伝えられた。

 
 
 

戊辰戦争

明治元年(1868)、「戊辰戦争」では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督参謀に任じられて越後や会津を転戦した。
明治2年(1869)、西郷従道と共にヨーロッパを視察する。帰国後には兵部少輔として軍制改革にあたる。明治4年(1871)には政府の直轄軍である近衛兵を創設して近衛都督となり、廃藩置県後に兵部大輔に昇進する。明治5年(1872)、兵部省が陸軍省と海軍省に分かれたことから陸軍大輔となり、長州藩の先輩である大村益次郎以来の徴兵制を推進して後に実現させた。明治6年(1873)、「山城屋事件」(商人山城屋和助が陸軍省の公金を借り受けて返済できずに自殺した事件)の責任追及を受けて陸軍大輔を辞任したものの、西郷隆盛の取り計らいで後に陸軍卿に就任する。明治六年政変後は西郷隆盛の後任として近衛都督に復職し、参議に就任するなど政府の中枢に位置するようになる。

台湾出兵

明治7年(1874)、台湾出兵の際には清国との戦争を回避するように主張した。明治9年(1876)の「萩の乱」、明治10年(1877)の「西南戦争」では政府軍の司令官として鎮圧に貢献した。

明治十四年政変

明治11年(1878)に参謀本部の設置に貢献し、明治15年(1882)に軍人勅諭の制定に寄与した。「明治十四年政変」の後に伊藤博文が立憲制度調査のためにヨーロッパに向かった際には、代役として参事院議長に就いた。明治16年(1883)に内務卿に就任し、2年後の内閣制度の成立によって内務大臣となる。華族制度では伯爵を授けられた。

第一次山県有朋内閣

山県有朋は自由民権運動に冷ややかな姿勢であり、政府による立憲制度を準備するために市制・町村制・郡制・府県制の地方制度に関心を持ち、明治21年(1888)にヨーロッパの地方制度を学ぶために渡欧した。黒田清隆内閣の総辞職により代わって第一次山県有朋内閣を組閣し、教育勅語の発布や第一回衆議院総選挙、第一回帝国議会が開かれた。第一回帝国議会における施政方針演説では、国家の独立を保持しながら国勢を振張するために「主権線」と「利益線」の確保が必要だと述べた。明治24年(1891)4月に第一次内閣は総辞職した。

日清戦争

伊藤博文による新政党の結成計画に反対していたが、明治25年(1892)に第二次伊藤博文内閣では法務大臣に就任した。明治26年(1893)、枢密院議長に就任した。明治27年(1894)、「日清戦争」が勃発し、山県有朋は第一軍司令官として朝鮮に渡ったが、病気のために帰国した。日清戦後には侯爵となった。

山県・ロバノフ協定

ロシア帝国の朝鮮への南下を見て、山県有朋はロシア皇帝の戴冠式に出席して「山県・ロバノフ協定」(朝鮮の独立を保障することなどを約束する)を締結した。

第二次山県有朋内閣

明治31年(1898)、元帥となる。第一次大隈重信内閣が総辞職すると、山県有朋は組閣の大命を受けて第二次山県有朋内閣を組織した。山県有朋は憲政党と提携して地租増徴・京釜鉄道の敷設・選挙法改正などを行なった。憲政党との提携が崩れたことによって退陣した。日露戦争では参謀総長の地位にあり、戦争の指揮をとっていた。日露戦後に公爵となる。これ以後は「元老」として政治の表舞台から退いたものの、山県有朋の影響力は亡くなるまで強く残った。時の首相である西園寺公望の政策に異議を唱えたり、大正政変・第一次護憲運動では藩閥政府への攻撃のやり玉に挙げられた。政党に対しては反対姿勢をとっていたものの、立憲政友会総裁の原敬を推薦するなど、影響力は抜群であった。

死去

大正11年(1923)2月1日に病没する。