尊王攘夷
尊皇攘夷とは、天皇崇拝思想である尊皇思想と外国人排斥を唱える攘夷が結びつき、形成された政治思想。欧米列強の圧力の中で幕藩体制が傾いた中で生まれた。背景には通商貿易による物価の上昇や外国人犯罪、植民地支配の恐怖がある。やがて長州藩の下級武士を中心とした尊王攘夷派は討幕運動に流れ、明治維新の原動力となった。
尊王攘夷思想
尊王論とは天皇尊崇の思想をいい、朱子学の大義名分論が説かれた江戸時代に盛んになった。一方で、江戸後期になると天皇は幕府よりも上位にあると考え、天皇を絶対視するようになった。そのような情勢の中で朝廷の勅許を無視して日米修好通商条約を結んだ問題がおこると、水戸藩の徳川斉昭や会沢安、藤田東湖らが外国人を排他する攘夷論と天皇を絶対視する尊王論を結びつけた政治思想を展開した。これを尊王攘夷論という。
原因 1.物価高
江戸幕府は、日米修好通商条約とそれに基づいた条約をフランスやイギリスらと結んだ。いわゆる安政の五カ国条約により、欧米との貿易が始まると、日本は大幅な輸出超過となった。特に生糸、茶、蚕卵紙では急激な品不足に陥り、国内の物価が上昇した。江戸問屋を通さず、直接外国と取引する者も現れ流通のバランスが崩れた。
また、日本と外国との金銀比価が異なったために、金貨が一時海外に流出。幕府は金貨の品質を下げる改鋳を行って流出を防んだが、貨幣の価値が実質的に引き下げられたため、国内の物価上昇に拍車をかけることとなる。
急激な物価上昇は、庶民の生活の圧迫と混乱を促したため、外国に対する反感が広がり、尊王攘夷運動につながった。
原因 2.外国人犯罪の増加
外国人は神戸港や横浜港での限定された港であったが、態度は悪く、無視できない犯罪が続いていた。日本に裁判権もなかったため、日本人の反感は根強かった。なお、この様子は、ドイツ人使節団のオレインブルクは『日本遠征記』で語られている。
原因 3.アヘン戦争
欧米諸国の植民地支配の脅威を感じていた当時、アヘン戦争が勃発し、アジアの大国である清が負けると、当時の日本にも衝撃が走った。特に尊王攘夷派は極端な排他思想を抱いた者も少なく、尊王攘夷運動に拍車がかかった
ヒュースケン暗殺事件
鎖国が終わりを迎えると、外国人への感情の悪化から、外国人殺傷事件が相次いで行われた。外国人が初めて殺害された事件をヒュースケン殺害であった。1861年12月5日、アメリカ公使館付の通訳ヒュースケンは、赤羽の接遇所から麻布善福寺のアメリカ公使館への帰路襲撃された。犯人は薩摩藩士の伊牟田尚平ら七人と見られたが、犯人を捕らえることはできなかった。
対馬占拠事件
1861年3月、ロシア軍艦が対馬に対し、停泊し租借権を要求した。島民の抵抗と幕府が依頼したイギリス公使の干渉によりロシア軍は、約半年後に退去した。
東禅寺事件
ヒュースケン暗殺事件が起こった半年後の1861年3月、東禅寺事件が起こる。品川の東禅 寺に置かれていたイギリス仮公使館を水戸藩浪士の有賀半弥ら14人が襲擊し、長崎領事モリソンら3人と公使館警備にあたっていた日本人数人が負傷した。襲撃した動機は、イギリス公使オールコックが国内旅行をしたことに対し、日本が汚されたと憤慨したことからおきた。
イギリス公使館焼き打ち事件(第二次東禅寺事件)
東禅寺事件から約1年半後の1861年にイギリス公使館焼打ち(第二次東禅寺事件)が起こる。品川御殿山に建設を進めていたイギリス公使館を高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎らが襲撃し全焼させた。
警備体制
外国人襲撃事件が多発するようになると、多額の賠償金を背負わせられた幕府は、外国人公使に厳重な警護の武士をつけた。攘夷派は、外国人公使を優遇しすぎと捉え、反感を覚えた。一方で、外国人公使からは厳重すぎた警護を不自由に思い、不満が相次いだ。
四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)
文久3年(1863)、朝廷との約束を交わしたのを背景に幕府は攘夷を決定した。同年5月、長州は攘夷を決定し、関門海峡を航行するアメリカ、フランス、オランダの外国船を次々に砲撃。これを受け、6月になりアメリカの軍艦ワイオミング号が長州に報復した。射程はアメリカ軍艦のほうが長く、反撃できないまま長州の軍船3隻のうち、2隻は撃沈、1隻は大破した。続いてフランス軍艦セミラス号とタンクレード号が報酬したが長州の砲台を撃破しただけでなく、村を焼き払った。四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)
生麦事件
1862年9月、薩摩藩の島津久光が江戸から薩摩への帰路で大名行列を横切った英国人商人リチャードソンら4人を襲撃した。大名行列に遭遇したにもかかわらず馬から下りなかったためである。リチャードソンは死亡、マーシャル・クラーク両氏2名は重傷。女性のボロデールは無事だったが、頭の髮を剃られ、丸坊主にされた。イギリスが生麦事件の賠償を求め、薩摩藩に砲撃を開始、薩摩の砲台は崩壊、城下は全焼した。(薩英戦争)