安藤信正|公武合体論の推進者,坂下門外の変での失脚

安藤信正 あんどうのぶまさ

安藤信正(1819~71)は、磐城平(いわきたいら)藩主。井伊直弼の下で功績を挙げていたが、1860年、井伊直弼が殺害された桜田門外の変が起こると、老中首座となる。これまでと方向転換を行い、公武合体を推進する。和宮親子内親王の降嫁を実現したが、坂下門外の変をきっかけに失脚した。

桜田門外の変からの融和政策

安藤信正井伊直弼の下、老中に任じられ、外国御用取扱の役職に就く。井伊直弼の方針に従っていたが、井伊直弼桜田門外の変で殺害されると、方針を転換し、井伊直弼に抗していた下総関宿(せきやど)藩主の久世広周を老中首座とし、安藤信正・久世広周による安定した政権を行った。また、井伊直弼に弾圧されていた徳川慶喜(一橋慶喜)、松平慶永、山内豊信(山内容堂)らの謹慎を解き、朝廷や外様諸藩に対して融和政策に転換した。

公武合体論

公(朝廷)と武(幕府)の提携による安定政策を公武合体論という。安藤信正は、日米修好通商条約での無断での調印問題などで対立関係をはかっていたが、孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王と4代将軍徳川家茂との婚儀により、朝廷との関係修復をはかった。

和宮親子内親王と4代将軍徳川家茂の婚儀

安藤信正は、孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王の4代将徳川軍家茂の婚儀の提案がなされたが、この奏請に対して朝廷は、 関東を黒船来航の前の状態に戻すなら、という条件を出した。和宮親子内親王には、すでに6歳で婚約した有栖川宮熾仁親王がいたので和宮親子内親王は徳川家茂との結婚を承諾しなかった。しかし、和宮親子内親王の生母勧行院らの説得に応じ、1860年10月18日、和宮降嫁が勅許された。しかし、その後、プロシア、 スイス、ベルギーと条約を締結したことに孝明天皇は激怒したが、結局、遅延はしたものの縁談は進められることとなった。1861年10月、京都を出発し、江戸城において和宮と家茂の結婚式が行われたのは、1862年2月11日であった。和宮親子内親王はこの政略結婚に苦心し、江戸に向かう途中に「住み馴れし 都路出でて今日いく日 いそぐもつらき 東路のたび」と詠んだ。

坂下門外の変

1862年1月5日、坂下門外の変と呼ばれる衝撃事件にあう。同日、将軍に拝謁を行うため諸大名が登城したが、老中の安藤信正もまた藩邸を出発した。安藤信正の駕籠が坂下御門の下馬札にさしかかったとき、直訴を装った男が近づき、銃を発射した。これを合図に5人の武士が安藤信正をめがけて斬り込こみ、暗殺を謀るが、安藤信正は背中に3カ所の傷を負うものの、坂下御門内へ逃避し致命傷は免れた。襲撃をした6人は全員殺された。襲撃者は、元水戸藩の藩士平山兵介、小田彦三郎らであった。安藤信正は逃げることはできたが、素足で坂下御門内に逃げ込んだこと、襲撃時の態度が問題視され、1862年4月1日に老中を罷免、刺客することになる。これをうけて久世広周も辞任し、安藤信正・久世広周の政権が崩れた。

坂下門外の変の原因

坂下門外の変は儒者、宇都宮の大橋訥庵(おおはしとつあん)の指導の下、藩士・平山兵介、小田彦三郎は水戸激派の浪士が中心となって実行された。大橋訥庵の思想はオランダとの貿易すら否定する極度の排外主義者で、尊王攘夷を掲げており、安藤信正や久世広周らの公武合体にも強い反発を覚えた。大橋訥庵のもとに安藤信正らが和宮親子内親王を人質とした上で天皇に条約の勅許を通す。それに対し、孝明天皇が拒否したとき、孝明天皇を廃帝しようと画策しているという情報が流れた。(真偽不明)大橋訥庵は激怒し、水戸過激派と宇都宮の尊攘派が提携して、安藤信正を襲撃する計画を立てるも、襲撃計画が漏洩し、1862年1月2日、計画の要であった大橋ら宇都宮側の同志が逮捕されるに至る。そのため、坂下門外の変は水戸激派の浪士が中心となって実行された。

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