天誅組|天誅組の乱と尊王攘夷

天誅組

天誅組とは、文久3年(1863)8月、洛東方広寺に中山忠光を中心とした尊皇攘夷を掲げた部隊。1863年8月2日、攘夷決行祈願のため、孝明天皇の大和行幸の詔が下された。この行幸を機に倒幕をはかるため、土佐藩の吉村寅太郎、備前藩の藤本鉄石らが公卿の中山忠光を擁して組織された。本人達は天誅組と名乗っておらず自らを義挙と唱えた。大和(奈良県)で挙兵し、「皇軍御先峰」と称して代官所を襲撃した。

目次

天誅組の乱の経緯

1863年8月14日 天誅組、京都を出発し、その日のうちに大和国五条に到着した。
8月16日 但馬の豪農の北垣晋太郎は平野国臣を通して、朝廷より農兵組織の許可を得る。平野と北垣は長州に赴く。
8月17日 天誅組が大和国五条代官所を襲撃した。代官の鈴木源内を刺殺する。
8月18日 京都で八月十八日の政変が起る。
8月20日 尊王を掲げていた天誅組に対し、朝廷から天誅組鎮撫の通達がくる
8月26日 天誅組、十津川郷士と高取城攻防
9月24日 東吉野村鷲家口の戦いで天誅組が壊滅する
10月2日 澤を始め奇兵隊含む37人、長州を脱出するが、その途中に天誅組の壊滅を知る
10月11日 平野、澤らが但馬生野に到着する
10月12日 平野らが但馬生野の代官所に襲撃する。出石・姫路藩が鎮圧のため生野に向け出発する。これに対し農兵らを街道防備のため配置するも、澤の逃亡により義勇軍は解散する

構成

構成は尊王をかかげる町人や儒者、神宮、医者と比較的身分の低いものであった。各自マゲを切り落としてザンバラ髪になった。

八月十八日の政変

文久三年(1863)、孝明天皇は、急進的な攘夷派を嫌い、公武合体派の会津藩と薩摩藩に依頼し、尊皇攘夷派を京から追放した事件、八月十八日の政変がおこり、結果、尊王攘夷派の公家と長州藩の7名は九州に落ちることとなる。

天誅組の弾圧

文久三年(1863)8月17日に天誅組は大和五条の代官所を襲撃するが、19日に8月18日の政変の一報が入ると孤立することになる。天誅組は尊王を掲げていたにも関わらず、朝廷から討伐命令が下った。天誅組は各地を逃亡し、9月3日の戦いで壊滅しました

吉村寅太郎

土佐藩の吉村寅太郎は鷲家谷で戦死した。最後に残念だ、叫んだと言われており、そこから残念大将と呼ばれるようになる。

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