大隈重信|佐賀藩,殖産興業,立憲改進党,憲政会,二十一箇条要求,他

大隈重信

天保9年(1838)~大正11年(1923)。佐賀藩出身。明治・大正期の政治家。外務大臣・内閣総理大臣などを歴任した。

目次

幕末期の大隈重信

天保9年(1838)、佐賀藩士である大隈信保の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだが、藩校の制度に反発した。文久3年(1863)、長州藩が外国船砲撃をしたことにより、長州藩を援助することを計画する。
元治元年(1864)、「第一次長州征伐」に際して佐賀藩主鍋島直正に建言して中止させようと働きかけたが、果たせなかった。

英学

大隈重信は、長崎にてオランダ系アメリカ人宣教師フルベッキから英学を学んだ。慶応元年(1865)、長崎で英学塾の致遠館を設立した。

副島種臣と共に脱藩

慶応3年(1867)3月、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして副島種臣と共に脱藩する。上京したものの、佐賀藩役人に捕らえられて、佐賀へ送り返された。

殖産興業政策

明治元年(1868)に新政府に参画し、徴士・参与・外国事務局判事などを務め、キリスト教徒処分問題ではイギリス公使パークスと交渉にあたるなど活躍した。大蔵省に入り、大蔵大輔として鉄道や電信の建設をはじめ、様々な事業を担った。明治3年(1870)に参議となり、引き続き大蔵省を管轄するなど辣腕を振るった。征韓論争が起こるとこれに反対した。中央政府にあって、主に財政問題を担当し、秩禄処分や地租改正の推進者として殖産興業政策を推し進めた。

立憲改進党

明治14年(1881)、国会開設の建白書を提出して国会の即時開設と政党内閣制を主張し、開拓使官有物払下げに反対して岩倉具視・伊藤博文・黒田清隆などと対立し、参議の職を罷免された(明治十四年政変)。大隈重信は、政府を辞めて自らについてきてくれた者たちと共に政党結成を計画し、明治15年(1882)に立憲改進党を結党して総理となった。また、東京専門学校(早稲田大学)を創立して、志ある者の育成を図った。

第一次伊藤博文内閣・黒田清隆内閣での外務大臣

第一次伊藤博文内閣・黒田清隆内閣で外務大臣となって条約改正交渉を行なったが、外国人裁判官任用をめぐって世間からの激しい反対にあい、玄洋社の来島恒喜から爆弾を投げられて片足を失った。これにより外務大臣の職を退いた。明治29年(1896)に進歩党の党首となり、松方正義内閣の外務大臣・農商務大臣となったが、やがて辞職した。

憲政会

明治31年(1898)、板垣退助と共に自由党と進歩党を合同して憲政会を組織し、大隈重信が首相となって日本最初の政党内閣を組閣した。しかし、わずか4か月で瓦解した。明治40年(1907)に高齢のために一旦政界を引退する。

二十一箇条要求

明治が終わって大正時代に入り、第一次護憲運動が起こると、立憲同志会の後援により政界復帰を果たし、大正3年(1914)に第二次大隈重信内閣を組閣する。第一次世界大戦に日本を参戦させ、中華民国に対して「二十一箇条要求」を突き付けた。大正11年(1922)1月10日に病没する。