北京条約(清-露)|沿海州割譲と露南下政策

北京条約(清-露)

北京条約(清-露)は、1860年に清朝とロシア帝国のあいだで締結された不平等条約であり、アムール川・ウスリー川流域の国境画定と、沿海地方の大部分をロシア側に帰属させた条約である。この条約は、すでに1858年に締結されていたアイグン条約を追認しつつ、その南方の境界を最終的に確定させ、ロシアが日本海に直接面する港湾を獲得する決定的契機となった。また同時期に清が英仏と結んだ北京条約(清-英仏)と並び、19世紀後半における東アジア国際秩序の再編を象徴する条約である。

締結の背景

19世紀前半、アジア極東地域ではロシア帝国のシベリア東進と、欧米列強による中国市場への進出が同時進行で進んでいた。はアヘン戦争後、南京条約など一連の不平等条約によって沿岸部の開港と租界設置を受け入れ、さらに1856年以降にはアロー戦争(第2次アヘン戦争)によって英仏連合軍の圧力にさらされていた。このような状況のなかでロシアは、アムール総督ムラヴィヨフらの主導のもとアムール川流域へ進出し、1858年にアイグン条約によって同地域の領有権の多くを獲得したが、ウスリー川以東の国境はなお未確定のままであった。

アロー戦争とロシアの調停外交

アロー戦争で英仏連合軍が北京に迫ると、政府は軍事的に著しく不利な立場に追い込まれた。ロシアはこの機会を利用し、表面上は清と英仏とのあいだを仲介する「調停者」として行動しつつ、自国に有利な国境画定を同時に進めたとされる。ロシア使節イグナチェフは、清朝が英仏との和平を急ぐ心理を巧みに利用し、対英仏交渉の支援と引き換えに、アムール川・ウスリー川流域でのさらなる譲歩を求めたのである。このように北京条約(清-露)は、対英仏戦争の危機に直面した清朝の弱みにつけ込んで締結されたという性格を持つ。

北京条約(清-露)の締結過程

1860年、英仏連合軍による北京占領と円明園焼討ののち、清朝はやむなく北京条約(清-英仏)に調印した。同じ時期に、ロシア公使イグナチェフは清の恭親王らと交渉を行い、すでに存在していたアイグン条約を再確認するとともに、ウスリー川以東の曖昧であった国境をロシア側に有利な形で確定させることを提案した。英仏軍の撤兵と首都防衛を最優先とした清朝は、他の選択肢をほとんど持たず、この要求を受け入れる方向で交渉が進み、最終的に北京で北京条約(清-露)が調印されたのである。

領土条項と沿海州の編入

北京条約(清-露)のなかで最も重要な内容は、アムール川・ウスリー川以東の領域をロシアの領土と認めた領土条項である。これにより、アムール川左岸地域の帰属を定めたアイグン条約に続き、ウスリー川東方から日本海沿岸に至る広大な地域、のちの沿海州が事実上ロシアに編入された。ロシアはこの地域に軍港ウラジオストクを建設し、極東支配の拠点とした。一方、はこの結果、日本海沿岸の多くを失い、北東辺境における軍事的・経済的影響力を大きく低下させることになった。

通商・外交上の取り決め

北京条約(清-露)には、国境画定のほかに通商・外交に関する条項も含まれていた。ロシアは清国内における通商上の特権を強化し、対等な外交関係の名目のもとで、事実上は不平等な条件による通商拡大を図ったとされる。条約によりロシア公使の北京常駐が認められ、他の西欧列強と同様に、首都で直接清政府と交渉できる地位を確立した。これらの取り決めは、後に最恵国待遇や関税自主権の問題として清朝を苦しめる構造の一部をなしたと理解されている。

北京条約(清-英仏)との関係

北京条約(清-英仏)は、英仏連合軍との戦争を終結させるための講和条約であり、租界の拡大や開港場の増設、賠償金支払いなどを定めていた。これに対し北京条約(清-露)は、対英仏の講和そのものには直接かかわらないものの、その交渉過程にロシアが介入することで成立した条約である。両条約は同じ北京でほぼ同時期に結ばれ、清朝に対する列強の圧力が頂点に達した局面を反映しているため、しばしば一連の「北京条約」として総体的に把握される。

歴史的意義と評価

北京条約(清-露)によって、ロシアはユーラシア大陸の東端における海への出口を確保し、のちのウラジオストク建設を通じて極東政策を本格化させた。一方、にとっては、広大な北東辺境を失う結果となり、この喪失は後世「外満洲の割譲」として強い屈辱の記憶と結びついた。中国の近代史叙述では、黄埔条約望厦条約、アヘン戦争後の一連の不平等条約と並び、この条約も主権と領土を侵害したものとして批判的に評価されている。19世紀後半の列強による中国分割の進行において、北京条約(清-露)はロシアの勢力拡大を正当化した重要な法的根拠となり、東アジア国際関係の構図を長期にわたって規定したのである。