冠位十二階|聖徳太子,蘇我馬子,隋,身分制度

冠位十二階

604年、聖徳太子と大臣の蘇我馬子によって設定された新しい冠の設定である。前年の603年に小墾田宮(奈良県明日香村)に群臣を召集して、翌年1月を期して新しい冠を制定し、官人への授与を始めることを説明している。中国の冠位制度を踏襲した制度となっている。

聖徳太子

聖徳太子

目次

冠位十二階の革新性

冠位十二階の革新性は、従来が官職が世襲的に家柄で決まっていたのに対し、12の冠位を定め、個人の成果と才能によって1代を限りに与えることにした。家柄にでなく、個人に与えたということ、1代限りで世襲されず、昇進もあった。

制度内容

冠位十二階と冠の色

冠位十二階と冠の色

従来の制度でも蘇我本宗家の紫冠や中臣連の錦冠など、各氏の族長位を象徴する冠の制はあったが、今回の冠位十二階は、このような旧来の制度を踏襲した上で、大王(天皇)に対する奉仕の功績に応じて冠を授与し、冠に上下の差をつけた。世襲では無く、個人に与えたということ、1代限りで世襲されず、昇進するという天で、従来の制とは、一新したものになっている。

例外

蘇我馬子らは、冠位を授与する側にはあるが冠位は帯びていない。天皇の側近の上級豪族を対象とせず、中下級の豪族を対象としていると考えられる。

外交的な役割

王のもとに結集した豪族たちに上下の差を設けて序列することは、すでに朝鮮3国で官位の制として発達していたが、冠位十二階は、この朝鮮の制度よりも、官人の身分の差を服色によって示す中国北朝の制を範としたものである。それをわが国固有の衣服であるスカート形の褶(ひらおび)の着用とセットで制度化したことには、中国につぐ第2の帝国という国際的地位を、朝鮮3国に対して積極的に示そうとする意図があった。また、遣隋使が隋の高祖に会見したさい、わが国の政治の未開性、礼制の欠如に対して非難を受け、これに対応する必要が出てきた。冠位十二階の設置は日本の官位制を整備し、国際的地位を意識したものであった。