内村鑑三|武士道に接木さぎされたるキリスト教

内村鑑三 うちむらかんぞう 1861~1930年

内村鑑三は、日本の代表的なキリスト教徒、思想家である。高崎藩士(群馬)、松平家家臣の長男として江戸生まる。主著は『代表的日本人』、『余は如何にして基督(きりすと)信徒となりしか』、『基督信徒のなぐさめ』。5歳から高崎に移り、儒学を学んび、武士道的倫理観の環境で育った。高崎の塾で英語を学んだあと東京外国語大学(東京大学の予備課程)に入学した。16歳のときに北海道大学である札幌農学校に進学した。このときに新渡戸稲造と同窓であった。在学中にアメリカ人教師クラークの影響を受け、キリスト教に改宗。その後、23歳のときに渡米してアーマスト大学で神学を学び、帰国後に第一高等中学校の嘱託職員となるが、教育勅語の奉読式における、不敬事件に巻き込まれた。その後、いくつかの教職につくが長くは続かなかった。36歳のとき、「万朝報」の英文欄主筆となり、足尾銅山鉱毒事件では財岡を糾弾、日露戦争で非戦論を展開したが、社長の黒岩涙香が開戦論に転向すると、幸徳秋水・堺利彦とともに退社した。その後は、雑誌『聖書の研究』によって反戦を説き、執筆と研究会を拠り所に宗教的内面性を深めていく。武士道伝統とキリスト教という異なるものを統合する、という、きわめて明治的な課題を負った思想家・宗教家である。

内村鑑三

内村鑑三

内村鑑三の略年

1861 江戸の高崎藩に生まれる。
1877 札幌農学校が入学した。
1878 キリスト教徒となる。
1884 渡米。
1885 アーマスト大学に編入する。
1887 ハートフォード抻学校に入学する。
1888 日本へ帰国する
1891 不敬事件。
1897 『万朝報』英文欄主筆。
1901 『無教会』創刊。
1903 非戦論展開、万朝報退社。
1930 死去。

内村鑑三の生涯

内村鑑三は、高崎藩(群馬県)の武士の家に生まれ、儒学が説く道徳と武士道精神の家庭で育った。16歳のとき、札幌農学校(北海道大学の前身)に入学し、新渡戸稲造らと出会う。札幌農学校はクラーク博士によるキリスト教教育が根付いており、内村鑑三は当初は消極的であったが、キリスト教を学ぶにつれ、キリスト教を信仰するようになる。23歳のとき渡米し、苦学して神学を学んだ。彼が、プロテスタントの国アメリカ合衆国で見たものは、拝金主義と物質文明に毒された社会であり、清潔でまじめな道徳的精神の生きている日本こそ、真のキリスト教が根づく国であるとの確信に達し、二つのJ(イエスと日本)に生涯をささげる決意をした。
帰国後は、この信念のもとで一貫して行動した。1891(明治24)年の不敬事件、1901(明治34)年の足尾銅山鉱毒事件における財閥を批判する。1903(明治36)年の日露開戦にあたっての非戦論、その後の無教会主義の伝道など、誠実で正しい日本人と日本のあり方を生涯追い求めた。

無教会主義

無教会主義とは、人間が神の前に立つ独立的人格であることを強調し、教会や儀式にとらわれず、直接聖書の言葉を読むことに基づく信仰を重んじる立場である。内村鑑三にとって外国教会の影響を受けず自由独立を貫くとともに神とイエス・キリストへの純粋な信仰に生きようという思想。パウロルターの福音主義につながる。内村鑑三のとなえた無教会主義は、その後、わが国の知識人に大きな影響を与えた。

教会は…、時と場合とに応じて、神がわれらの信仰を土台として、その上に造りたもうものであります。しかるを、われらの時と場合とに何の関係もなくしてできた教会をそのままわれらの中に植えようとするのは、これ天然の法にそむくことでありまして、また神の聖旨でないと思います。

二つのJ

二つのJとは、キリストによってのみ日本の真正な独立と自由があるとし、キリスト(JESUS)と日本(JAPAN)、『ふたつのJ』への奉仕を説く。留学先のプロテスタントの国アメリカ合衆国でみたのは拝金主義と物質文明に毒された社会であり、清潔で真面目な道徳的精神の生きている日本こそ、心のキリスト教が根付く国であるとの確信に達し、2つのJ、キリスト(JESUS)と日本(JAPAN)に生涯を捧げることを誓った。

私どもにとりましては、愛すべき名とて天上天下ただ2つあるのみであります。その一つはイエスでありまして、その他のものは日本であります。…私どもはこの二つの愛すべき名のために、私どもはの生命を捧げようと思うのであります。

・・・イエスは、私どもの未来の生命のあるところでありまして、日本国は私どもの現在の生命のあるところであります。そうして神を信ずるものにとっては、未来も現在も同一でありまするゆえに私どもにとっては、イエスと日本国とは同一のものであります。(『失望と希望-日本国の前途』)

私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のためにある(I for Japan,Japan for the world, the world for Christ,and all for God.)

内村鑑三

内村鑑三

「武士道に接木さぎされたるキリスト教」

武士道とキリスト教の精神は互いに反するものではなく、社会正義を貫き、利害や打算をこえた清廉潔白な武士道の精神こそが、キリスト教の真理と正義を実現するための土台になるとした。

非戦論

日露戦争への機運が高まった1903年、内村鑑三キリスト教信仰に基づきながら日露戦争に反対した。神が我々に命ずるのは、「殺すなかれ」という絶対的平和であり、どんな場合にも剣をもって争ってはならないと考え、絶対平和主義を貫き通した。

『日露戦争によって余が受けし利益』1

私は、日露戦争には最初から反対しました。
私は第一に、宗教、倫理、道徳の上から反対しました。
第二に、両国の利益の上から反対しました。第三に、日本国の国是の上から反対しました。

『日露戦争によって余が受けし利益』2

日露戦争によって、私はいっそう深く戦争の非をしりました。・・・・・・戦争によって人は敵を憎むのみならず、同胞をも顧みざるにいたります。人情を無視し、社会をその根底において破壊するものにして戦争のごときはありません。戦争は実に人間を禽獣化するものであります。

『日露戦争によって余が受けし利益』3

戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一回もあったことはありません。

内村鑑三

内村鑑三

不敬事件

不敬事件とは、1891(明治24)年、第一高等中学校の講師であった内村鑑三が、教育勅語ようとの奉読式で、勅語に「敬礼」を行わなかったため、世の非難を受け辞職した事件。内村は、天皇や皇室そのものには敬愛の念を持っていたが、キリスト教の神以外のものに「礼拝」することを、キリスト者としての良心から拒否した。

『余は如何おにして基督信徒ますととなりし平か』

武士道教育で育った内村鑑三がいかにキリスト教徒になったかについて書かれている自伝的信仰の告白書。英文で書かれいる。入信前の少年時代、札幌農学校でのキリスト教回心、そしてアメリカ留学による、ゆるぎない信仰の確立。彼の精神形成の歩みについて記述されている。

『基督信徒のなぐさめ』

『基督信徒のなぐさめ』(1893 明治26)年に発表された。不敬事件後の苦境の中で、苦境に立たされているキリスト教徒を代表して、キリスト教の原理をもって自身の慰めを目的に書かれている。

『代表的日本人』

『代表的日本人』とは、内村鑑三が、欧米諸国に日本の道徳や宗教を代表する5人の日本人がいることを示すためにするされた書。英文で書かれている。西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳中江藤樹日蓮である。

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