伊藤博文|薩摩藩,松下村塾,初代内閣総理大臣

伊藤博文

明治時代の政治家。幕末期から政治活動に身を投じる。初代内閣総理大臣などの要職を歴任し、大日本帝国憲法の制定に力を尽くすなど明治国家の礎を築いた。

目次

幕末期の伊藤俊輔

天保12年(1841)9月2日、周防国熊毛県束荷村(山口県熊毛郡大和町)の農民の子として生まれる。当初は「林」姓を名乗っていたが、父の十蔵が長州藩の中間である伊藤直右衛門の養子となったため、「伊藤」姓を名乗ることになる。安政3年(1856)、長州藩が相模国の御備場の警衛を幕府から任されていたため、伊藤博文も参加した。

松下村塾

長州藩士来原良蔵から薫陶を受け、松下村塾に入塾して吉田松陰からも学ぶ。

イギリス公使館焼き討ち

文久2年(1862)、高杉晋作・久坂玄瑞らによる品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加する。翌文久3年(1863)、井上馨・山尾庸三・遠藤謹助・井上勝と共にイギリスへ密航留学を果たす。しかし、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ艦隊が下関に襲来するという報道に接したことで、長州藩に攘夷の不可能を伝えるために井上馨と共に急遽帰国した。四国艦隊下関砲撃事件の講和交渉では、高杉晋作と共に乗り込み、伊藤博文は通訳として参加した。

明治維新を迎えて

慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令によって新政府が誕生した。明治に入り、伊藤博文は外国事務掛や兵庫県知事を歴任し、当初は主に外交部門で能力を発揮した。

伊藤博文

明治4年(1871)、条約改正交渉と海外視察を目的とした岩倉使節団に、伊藤博文は特命全権副使として参加する。

木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通

明治6年(1873)、日本に帰国する。帰国直後の日本政府内では、西郷隆盛の朝鮮使節派遣をめぐって分裂状態となっており、伊藤博文は朝鮮使節派遣反対・内治優先論を唱える大久保利通側に付いて奔走し、結果的に西郷隆盛の朝鮮使節派遣は延期(実質的に中止)となり、西郷隆盛や西郷派であった板垣退助などが政府を去っていった(明治六年政変)。明治六年政変後、伊藤博文は参議兼工部卿として日本の近代化政策を推進していくことになる。 「維新の三傑」と称された木戸孝允西郷隆盛大久保利通が相次いで亡くなると、明治11年(1878)に参議兼内務卿として日本政府の中心的政治家となっていく。

内閣総理大臣と大日本帝国憲法

明治10年(1877)の西南戦争後、もはや武力行使で日本政府に立ち向かうことが不可能な状態となってくると、国会開設・憲法制定などの主張を言論によって政府に突き付ける「自由民権運動」が活発化していった。日本政府は、明治初期の段階から国会開設や憲法制定に関して調査を行なっていたが、自由民権運動の高まりから、いよいよ本格的に向き合わなければいけない状態となってきた。
 明治14年(1881)、即時に国会開設などを主張し、自由民権運動に同調的姿勢を見せた大隈重信が政府を去ることになった(明治十四年政変)あと、政府は9年後の国会開設を布告し、国会開設を政府主導で行うことを約束した。伊藤博文は、明治15年(1882)から翌明治16年(1883)にかけて憲法制度調査のためにヨーロッパに滞在した。
 帰国後の伊藤博文は、立憲政体に向けて憲法草案や皇室典範草案を作成することになる。明治17年(1884)に華族令の制定に携わり、自らは伯爵となった(最終的に公爵となる)。明治18年(1885)に太政官制度に代わって内閣制度が導入され、伊藤博文は初代内閣総理大臣として第一次伊藤博文内閣を組織した。明治19年(1886)から井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎と共に憲法草案の起草を行ない、明治21年(1888)に完成した。
 伊藤博文は首相の座を黒田清隆に譲り、新設された枢密院議長となって憲法草案の最終審議に力を尽くした。明治23年(1890)、遂に「大日本帝国憲法」が発布された。

日清・日露戦争へ

帝国議会開設を果たしたものの、伊藤博文は政府の決定については政党の意思を反映させない「超然主義」に基づいた姿勢を採ろうとした。
明治25年(1892)、第二次伊藤博文内閣が発足した。しかし、軍拡政策や条約改正交渉をめぐって民党側の激しい攻勢によって動揺した。条約改正交渉で領事裁判権の撤廃に成功し、日清戦争の講和交渉では陸奥宗光と共に清国の李鴻章と下関で会談した。
日清戦後に挙国一致内閣を構想し、板垣退助・大隈重信の入閣によって民党側の懐柔を図ったが、板垣退助の入閣と自由党の与党化のみに留まった。
第三次伊藤博文内閣では、退陣する際に大隈重信・板垣退助ら民党側に政権を委譲し、自らも新政党結成に向けた動きを始めた。明治33年(1900)に立憲政友会を結成し、伊藤博文は総裁に就任し、第四次伊藤博文内閣を組織した。しかし、政党に対して反発する山県有朋を中心とする「山県閥」との対立で退陣することになる。
この頃の日露関係について、伊藤博文はロシアと協調していく「日露協商」論を唱えてロシアまで赴いたが挫折した。日露戦争の開戦にあたっては慎重な姿勢を崩さなかった。

最期の時

伊藤博文は日露戦後に韓国統監府の初代統監となる。明治42年(1909)6月、韓国統監を辞任する。日本の韓国併合には当初から慎重な姿勢であったが、最終的には同意したと言われている。10月26日、極東問題についてロシア側と話し合うために満州へ赴き、ハルビン駅に降りたところを韓国の活動家である安重根によって狙撃されて死去した。

 
 

参考文献

『国史大辞典』「伊藤博文」(執筆:安井達弥)。
瀧井一博『伊藤博文』(中央公論新社、2010年)。