マルティン・ルター|宗教改革,キリスト教

マルティン・ルター Martin Luther、1483年11月10日 – 1546年2月18日

ルターは、ドイツの神学者・宗教改革の指導者。主著『キリスト者の自由』。1433年にドイツで生まれた。当初は法律家を目指したが、エアフルト大学に行く途中、豪雨と落雷にあったのをきっかけに神学を学ぶ。1512年、ヴィッテンベルク大学の神学教授になるが、贖宥状を販売されたキリスト教会に疑問を持ち、その後は生涯をもって宗教改革に邁進することになる。ルターの思想は、人はみずからの善行ではなく、神の恵みへの信仰によってのみ救われるという信仰義認説、聖書に記された神の救いの言葉(福音)を信じる聖書中心主義がその特徴である。ルターは神の恵みを感謝をもって受け入れ、神の救いへの信仰に生きることが、キリスト者の道であるとし、すべてのキリスト者は、信仰心を通して神に直接かかわる点で平等であり、特権的な聖者の身分を否定した。(万人司祭主義)。ルターが進めた宗教改革は、個人の純粋な信仰心を回復し、教会の権威主義から個人を解放した。

修道士時代のルター

修道士時代のルター

目次

ルターの生涯

中部ドイツのアイスレーベンに生まれる。父は鉱夫。法律家になるためエルアルト大学で法律を学ぶが、22歳のときに家を出て大学に通う途中、豪雨と落雷にあって死の恐怖を体験し、「聖アンナよ、助けてください。私は修道士になりますから!」と叫んだ。そのときの神への誓いに従って、両親の反対を押し切り、アウグスティヌス修道院に入ることになる。しかし、修行の功績によっては、神に対する罪から逃れることはできないという苦悩を体験した。29歳の頃、ヴィッテンベルク大学の神学の教授となり、聖書の講義を行い、その中でイエス・キリストによって示された神の恵みへの信仰によってのみ人は救われるという福音主義の信仰に到達した。ローマ=カトリック教会が財政のために贖宥状(信者が犯した罪に対する罰を免除する証書)をドイツで販売したことに抗議し、1517年にヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の意見書」を掲げて、贖宥状の販売が誤りであることを主張した。このとき、神学論争を期待したが、討論を挑むものはなく、教皇や皇帝の怒りをかったのみであった。これは、ドイツ中に伝えられて大きな反響を呼び、宗教改革の発端となった。ローマ=カトリック教会はルター派を弾圧したが、ルターは教会の破門状を焼き捨て、破門された後は選帝侯フリードリヒの城にかくまわれながら、聖書のドイツ語訳を行うなど宗教改革を続けた。その後、ヴィッテンベルクに戻って改革を進めたが、暴徒化した農民戦争には反対の立場をとった。その後もプロテスタント教会を組織するなど、晩年まで教会の改革運動につとめた。(ルターの生涯

ルターの年表

1483年 ドイツのアイスレーベンで生まれる。
1501年 エアフルト大学に入学する。
1505年 豪雨・落雷をきっかけに修道士となる。
1512年 ヴィッテンベルク大学の神学部教授となる。
1517年 『95か条の論題』をヴィッテンベルクの教会の扉に打ち付ける。
1518年 ローマから召喚状を受ける。
1520年 『キリスト者の自由』を出版。教皇からの破門威嚇の書状を焼く。
1521年 正式に破門・帝国追放となる。
1522年 『新約聖書』ドイツ語訳。
1525年 ドイツの農民反乱の鎮圧を支持する。
1529年 シュパイエルの国会でルター派諸侯が抗議する。
1546年 死去

信仰義認説

ルターは「信仰だけが人間の義である」とし、信仰義認説を説いた。しかし、ルターは祈ることだけが重要ではなく、信仰を内面化すること、つまり、キリスト教の価値観を自分の価値観として受け入れ考えて行動することを強調した。

キリスト者は、自分自身の内に生きるのではなく、キリストと自分の隣人とにおいて生きる。すなわち、キリストにおいては、信仰を通して、隣人においては愛を通し生きるのである。彼は、信仰によって自分をこえて神へとのぼり、神のところから愛によって再び自分のもとへとくだり、しかも常に神と神の内にとどまる。(『キリスト者の自由』 ルター)

君はまたここで信仰がすべての掟を満たし、ほかのすべての行いなくして人を義とすることが、どんな理由で当然だと認められるのかを、知るだろう。なぜなら、きみはここで信仰のみが「ただ一人の神をあがめなさい。」と命ずる第一の戒めを満たすことを知るからである。たとえきみがかかとに至るまでまったく善行のみであったとしても、それでも義とされるのではなく、・・・しかし、これをするのはいかなる善行でもなくただ心のうちの信仰のみである。

贖宥状(免罪符)

ルネサンスのローマのサン・ピエトロ10世(在位1513-21)がローマのサン・ピエトロ聖堂の改築、キリスト教界の霊魂救済を促すためとして、贖宥状(免罪符)の販売を開始したが、ルターは罪の救いを金で買えることを批判した。

我々の主であり、また師であるイエス・キリストが「悔改めよ・・・」と言われるとき、信仰者の全生涯が悔い改めにほかならないことを望まれたがためである。」(第一条)
法王は教会規則に従いながら自ら定めたことを除いては、いかなる罪をも赦そうとすべきではないし、また赦すことができない。(第五条)
それゆえ、法王の贖宥によって、ひとはあらゆる罪から解放されると説く贖宥説教者たちは間違っている。(第二十二条)
(ルター『95か条の論題』)

ルター

ルター

印刷技術による宗教改革

ルターは当時ヨーロッパに広まった印刷技術を使い、多くの書籍を出版することでカトリック教会と戦うことによる。当時の識字率は、10%以下と少なく一部の人文主義者や神学者しか、ルターの書物を読むことはできなかったが、その躍進力は大きなものがあった。また、庶民に対しては、安価で利便性に優れた、木版画のビラやパンフレットを利用した。

福音主義

ルターは福音主義(エヴァンゲリスト evangelist)と呼ぶ、イエスの教えに回帰することを説いた。

司祭万人主義

人は信仰によってのみ神の救いにあずかり、個人の内面が重視される限り、司祭と信者との区別がないとし、司祭万人主義を説く。

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