パウロ Petros 〜A.D64?
パウロは小アジアのタルソス出身の原始キリスト教の宣教師。パウロは、ヘブライ語ではサウロ、小さき者を意味する。生没年不明。『新約聖書(コリント人への手紙、ローマ人への手紙)』古代ギリシア・ローマを中心にキリスト教を伝えた。元はパリサイ派のユダヤ教徒だったが、キリスト教徒を弾圧するためにダマスコに行く途中に不思議な光に包み込まれ、復活したイエスの声を聞いて回心した。イエスの死の意味を贖罪、つまり、原罪を負った人間と神との和解であるとし、すべての罪は、この神への愛によって救われると説いた。そしてこのイエスの福音はすべての人々に平等に伝えられるべきものだとし、古代ギリシア・地中海を中心に宣教をおこなった。キリスト教が世界宗教と呼ばれるに至る礎を築いた。最後は皇帝ネロの迫害によって殉教した。
パウロの生涯
小アジアのタルツスの生まれ、口ーマ市民権をもつ。裕福な家庭で育ったと言われている。熱心なユダヤ教徒としてイエスの信者たちを迫害していたものの、シリアのダマスクスに行く途中、イエスの声を聞き、回心した。キリスト教への回心した後、エルサレムからシリアへ活動の拠点を移し、さらに小アジアやマケドニア、ギリシャの各地で普及活動を行った。キリスト教がヨーロッパ全体に分布したのはパウロの貢献は大きい。
普及活動はパウロにとって厳しい環境の中で行われ、ユダヤ教主派からの迫害・弾圧、イエス信者たちからの厳しい目が向けられる中、布教活動と著述の日々を送った。後に「異邦人の使徒」と呼ばれた。キリスト教はイスラエル民族を超えた世界宗教となる。その後、彼はエルサレムに戻るがユダヤ教徒に捕らえられ、ネロ帝統治下の口ーマに護送されて殉教したと伝えられる。
パウロのキリスト教の特徴
パウロはキリスト教の思想と普及の基盤を作った。特に、イエスをキリスト(救世主)とするキリスト教の教義、三元徳(信仰・希望・愛)の確立は、キリスト教の根本思想として現代にも根付いている。人間は誰もが本性的な罪(原罪)をもち、ユダヤ教が説く律法の遵守によってでは、罪から逃れられない。そもそも厳しい律法を守りきることは非常に困難で、人間にできることとは思えない。そこで、神は人を救うため、わが子、イエスを救世主として地上に遣わした。イエスの死は人間の罪の償いであり、神の愛の表れである。イエスは神の子キリストであり、イエスをキリストであると信じていることによってのみ、人間は神の愛にあずかることができるのである。
『新約聖書」 パウロ 「ローマ人への手紙」
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては罪の自覚が生じるだけである。しかし今や、神の義が、律法とは別であることが明らかになった。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには何の差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。彼らは、対価なしに、神の恵みにより、キリスト、イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。
信仰義認論
義を行おうとすればするほど、律法を守ろうとすればするほど、それを守れない自分を前に人は罪深さを自覚することになる。律法によってではなく、イエスの贖罪による神の愛への信仰によってのみ義となるとした。後に近世にはいるとカトリック教会に異を唱えるルターの宗教改革に継承される。キリスト教徒が持つべき徳目(三元徳)を、信仰・希望・愛をとして重視した。そしてこのことは特定の民族や国家に限らないとし、異邦人伝道に注力し、世界宗教としてのキリスト教への脱皮をはかった。(参考:信仰義認説)
「ローマ人への手紙」第3章
義人はいない、ひとりもいない
悟りのある人はいない
神を求める人はいない
・・・
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人問は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
・・・
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである
原罪
キリスト教は原罪を説くが、パウロにおける原罪とは、自分の意志の及ばない、生きている限リ犯さざるをえない罪のことである。私たちは弱く、心に教えを抱いていても、それを守ることのできない弱さをもっている。そしてパウロによれば、原罪から救われるためにイエス=キリストへの信仰が必要である。イエス=キリストは全人類を原罪から解き放つために十字架の刑に処せられた。このことは、私たちの原罪を私たちにかわって背負い、償ったということを意味する。キリストへの信仰こそが私たちが原罪から救いにあずかる唯一の道であるとした。
「口ーマ人への手紙」第7章
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。
わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死の身体から、わたしを救ってくれるのだろうか。わたしたちの主イエス-キリストによって、神は感謝すべきかな。
キリスト教の三元徳
キリスト教の三元徳である、信仰・希望・愛は『新約聖書』にあるパウロの「コリント人への手紙」の中で記されている。キリスト教は無差別に善人であって悪人であっても罪人や自分に敵対する人物であれ、神によって平等に無償の愛(アガペー)で包みこむ。その神に感謝することによって、神の愛を信じて、希望をもち、自らの隣人を愛する。なお、この信仰・希望・愛というキリスト教の三元徳はアウグスティヌスの貢献によってキリスト教の思想に広く根付くことになった
コリント人への第一の手紙 第13章
愛は寬容であり、愛は情け深い。また、妬むこともしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。