キリスト教の歴史 2ローマ帝国

キリスト教の歴史 2ローマ帝国

イエスは反感をかったローマ帝国ユダヤ教に処刑にされてしまうが、残された彼の弟子らによって布教活動が始まる。多くの迫害にあうが、ローマ帝国が崩壊に向かう一方で、キリスト教は都市内部まで広がり、国教として認められた。やがて中世ヨーロッパをへて世界宗教に発展していく。

復活信仰

イエスの死後、弟子たちの間に、イエスの預言通り、イエスが復活したという復活信仰が生まれた。これを信じるものは集まって悔い改めと感謝をもって神を信じ、イエスの再臨と神の国の真の到来をまつ共同体をガリラヤやエルサレムに形成した。

布教

最初のキリスト教徒たちは、神の国の到来が近いと思っていたが、それは実現しなかった。その後、イエスの教えを他のユダヤ人に伝道するため普及活動を行うようになる。

ペテロ

イエスの12人の弟子の第1であったペテロ(?~64?)は中心的役割を担った。パレスチナから小アジア・ギリシアの都市へ伝道がおこなわれ、信者の共同体である教会が生まれていった。

パウロ

パウロは、ユダヤ教のパリサイ派としてキリスト教徒を迫害していたがキリスト教に改宗した。パウロは、異邦人(ユダヤ人以外の民族)への伝道を積極的におこい、その普及をおこなった。パウロは多くの書簡でイエスの十字架の死は、神のひとり子によるすべての人間の罪の贖いであること、旧約聖書の預言とイエスとの関係、教徒の信仰生活のあり方を説いて、原始キリスト教の教義の根幹をかたちづくった。

ユダヤ教徒からの迫害

キリスト教徒は当初、ユダヤ人がその大半を占めた。礼拝や生活面ではユダヤ教徒のしきたりを守ることも多かったが、ユダヤ教徒のキリスト教迫害は、キリスト教初期から頻繁に行われた。

ローマ帝国からの迫害

多くのギリシア人の下層民や女性、解放奴隷や奴隷などの異邦人の多くが、改宗者の中心となった。一般のローマ市民にとってユダヤ教キリスト教と共に彼らは多神教を拒み、神々と皇帝の像を礼拝せず、都市の政治や社会生活にとけこまない、いまわしい人々とみなさた。

皇帝ネロの虐殺

64年ローマに大火が起ったが、その犯人がキリスト教徒だとして処刑された。ここにはキリスト教徒への差別意識があったと言われている。なお、ローマ帝国による初めての迫害であり、その意味で、キリスト教ローマ帝国によってその存在が認められた最初の事件でもある。

ユダヤ教徒の反乱

66ー70年にユダヤ教徒の反乱が起ったが、キリスト教徒はこれに加わらなかった。このため一般のローマ市民においてもユダヤ教との区別が行われた。

デマ

キリスト教徒は偶像を拒むだけでなく、人食主義などのデマが一般に信じられるようになった。こうしたデマを背景に皇帝や都市の民衆たちによる迫害が2世紀ころから頻出するようになる。属州の総督や皇帝は2世紀にはキリスト教徒が告発され際には、キリスト教徒は死刑に処されるようになる。ローマや小アジアの都市、ガリアのリヨンなど、多くのキリスト教徒が民衆の迫害や政府の弾圧により迫害を受け、殉教した。

3世紀の布教

3世紀の半ばまでは、キリスト教への一時的な迫害はみられ、その地域も限定的であった。皇帝は無責任な告発や暴動のような迫害を禁止することが多く、公然と布教され、市民権を得るようになっていく。信者の間の親密な関係、女性や貧民・奴隷も平等に礼拝すること、病人や死者に手厚く接することがその要因である。

都市への普及

弱者のものであったローマ都市の富裕な階級もしだいにキリスト教に改宗するようになる。この頃になると、教会の組織も整えられ、司教が教会の頂点にあって強い指導力をもち、その下に司祭・執事などがおかれ、ローマやエルサレムなどの大教会は他教会を指導するようになった。

皇帝デキウスによる迫害

3世紀の半ばから帝国が危機に陥るなかで宗教の統一を必要とするようになり、皇帝デキウスによる弾圧が始まった。さらに帝国再建を果たした皇帝ディオクレティアヌスは、303年に帝国全域で「大迫害」を命じた。しかしキリスト教徒は、とくに東方ではローマ帝国内部に広浸透しており、殉教者が続出したものの、迫害は失敗に終わる。

コンスタンティヌス

長らくキリスト教迫害が続いたが、コンスタンティヌスが権力をもつと一転、313年、「ミラノ勅令」を発してキリスト教を公認した。その後東方のリキニウス(位308~324)が迫害を再開するものの、324年にコンスタンティヌスが帝国を統一すると、キリスト教の地位は確かなものとなった。

ニケーア公会議

1世紀から、キリスト教のなかで、神とキリストの関係などについて、論争が繰り返されていた。コンスタンティヌスは325年、ニケーア公会議という宗教会議を主催し、アタナシウス(295頃~373)の主張した、神と神の子キリストが同じ本質をもつという三位一体説が正統とされ、他方キリストの神性を否定し、キリストは神によって創造された人間であるとするアリウス派は退けられた。

ユリアヌス

「背教者」と称されるユリアヌス(位361~363)は、古典文化とギリシア宗教の復興をくわだてキリスト教を抑圧しようとしたが、失敗に終わる。

テオドシウス

キリスト教正統派(カトリック)が確立されていく過程で、テオドシウスはほかの宗教を禁じてキリスト教を国教とした。

国教としてのキリスト教

キリスト教は皇帝の支援をうけると、大都市の教会を中心として組織の巨大化していき、農村にも信者は増えた。キリスト教は免税などの特権によって財政的に恵まれ、貧民への施しも制度化していった。こうした過程で司教は教会だけでなく一般社会や政治に対しても力をもつようにななる。

聖書のラテン語訳

聖書のラテン語訳がヒエロニムス(342頃~420)によって完成し、神学の研究も東西の教会で進められた。

アウグスティヌス

アウグスティヌス(354ー430)は、みずからのキリスト教への改宗の動機をつづった『告白』を著すとともに、当時強まったキリスト教に対しローマ帝国の衰えの責任を問う異教徒の批判に答え、キリストの神の国が地上のローマ帝国などをはるかにこえる永遠性をもつことを論証する『神の国』を書き残した。彼はギリシア哲学とキリスト教思想を結合させようとした教父たちをうけて、その流れを完成し、のちの中世ヨーロッパの神学の発展に大きな影響力を与えた。キリスト教会の正統と異端との論争はなおも続いた。