エリツィン|ロシア連邦の初代大統領,プーチンの前任

エリツィン(Boris Nikolaevich Yeltsin)

エリツィンは、ロシア連邦の政治かで、モスクワ市の共産党第一書記からロシア共和国最高会議議長などを歴任した。ゴルバチョフの改革の甘さを厳しく批判をしたことから左遷され、一時は政治生命を絶たれるが、ソ連共産党の特権階級の腐敗を批判することで庶民の支持を得た。1991年、国民投票によりロシア連邦初代大統領に就任する。

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エリツィン

1931年、エリツィンは、農民の子としてロシア南部のいなか町で生まれた。工業大学を出て機械工場で働いていたが、ゴルバチョフの改革を支持し、ゴルバチョフに引っ張られてモスクワ市の共産党のトップになる。

ロシア共和国の議長

1990年3月、エリツィンは、ゴルバチョフの改革の中で、ロシア共和国議会の選挙にモスクワから立候補して当選した。自由な言論が認められた中で、ソ連共産党を厳しく批判したことで、モスクワ市民の共感を集めた。全投票総数の90%もの票を獲得、5月の議長選挙で議長に当選し、ロシア共和国の議長となる。

大統領

エリツィンは、独裁体制の悪政が続くソ連において、ロシア国民から直接選挙で選ばれる大統領の職を新設し、1991年6月、ロシア共和国の中だけで大統領選挙を実施、ロシア共和国大統領に就任した。民主化初の大統領である。

8月クーデターの反対

ゴルバチョフの改革に対して懸念した保守派はクーデターを起こし、ゴルバチョフを幽閉した。独裁政権の回帰に、エリツィンは、ロシア議会が入っている〝ホワイトハウス〟の前で、戦車の上で反対する演説を行った。

ラジオ・ロシア

クーデター派は、テレビやラジオを抑えた一方、反クーデター派は「ラジオ・ロシア」と呼ばれる非合法のラジオ放送を行い、連日エリッィンの声明やホワイトハウス前の様子を中継した。多くの市民はエリツィンの呼びかけに呼応してホワイトハウス前に集まり、また特殊部隊はクーデター派の命令を拒否してそこに加わった。様々な部隊がそれに続いた。エリツィンの逮捕を命令した軍も動かず、反クーデター派についた。

8月クーデターの失敗

クーデターは、失敗に終わり、クーデターを起こした8人のうち、ひとりが自殺し、残り7人は拘束された。民衆はこのニュースに歓喜し、各地でレーニンの銅像を倒す姿が世界中に報道された。こからソ連の崩壊が突き進む。

ソ連共産党の崩壊

クーデターが失敗に終わると、エリツィンは、ソ連共産党中央本部の建物を封鎖、共産党の活動禁止を命じた。ロシア共和国の中にあるソ連の国家財産を、すべてロシア共和国の所有に移し、ソ連を形骸化した。ゴルバチョフはエリツィンによって救出されたが、エリツィンの強権をまえにソ連共産党書記長を辞任し、党中央委員会も解散させた。

独立国家共同体

1991年12月8日、ロシアのエリツィン大統領は、ウクライナのクラフチユク大統領、ベラルーシのシュシケビッチ最高会議議長とベラルーシのミンスク郊外のベロヴェーシの森の別荘に集まり、秘密会議を開き、ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を発表した。一方的にロシア、ウクライナ、ベラルーシの三ヵ国によってソ連解体を宣言し、独立国家共同体がソ連にとって代わった。その後、ソ連を構成していた15の共和国のうち、バルト三国を除く一二ヵ国が独立共同体に参加した。

ソ連消滅

1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、26日をもって、ソビエト社会主義共和国連邦は正式に消滅した。

資本主義

エリツィンはソ連の社会主義から資本主義に転換を図った。商品の値段を政府による固定化ではなく、商品の値段を自由化を図った。しかし、ソ連時代の影響から一社が独占した市場でなされた自由化のため、競争の原理が働かず、値段がつり上がる結果となった。

マフィアの台頭

経済の混乱は、マフィアの暗躍もあり、経済の実権の多くの部分をマフィアに支配された。

プーチンを指名

ソ連を解体に導き、民主化や資本主義化を試みたソ連であったが、1999年末に健康不安を理由に引退を表明した。後継者をプーチンを指名した。


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