アッカド人
アッカド人は、セム語系のアッカド語を使用した民族。バビロニア(南メソポタミア)北部からおこり、シュメール人の都市国家をつぎつぎに征服し、前24世紀頃、メソポタミア最初の統一国家を建設した。このメソポタミア最初の統一国家は、さらにシリアや小アジアやアラビアにまで支配の手を伸ばしたが、約1世紀後に当方の山岳民の親友をうけて滅んだ。
アッカド人(メソポタミア文明)
アッカド人は、古代メソポタミアにおいて重要な役割を担ったセム系の民族である。広大なティグリス川・ユーフラテス川流域の中部から下流域にかけて居住し、周辺のシュメール人やアムル人などと文化的・政治的に交流を行いながら独自の社会や都市を築いたとされる。伝承によれば、彼らは王サルゴンによって統一され、紀元前24世紀頃に「アッカド帝国」を打ち立てたという。メソポタミアの歴史の中で初めて大規模な帝国体制を樹立したことで、その後の地域の政治構造や軍事制度にも大きな影響を与えたと言われている。
起源と歴史的背景
強固な都市国家を形成したシュメール人の南方に位置し、シュメール文化の影響を受けながらも独自に発展したのがアッカド人の起源とされる。セム語系の言語を話す人々であり、遊牧的要素も含みつつ農耕社会にも深く根ざしていた。都市の壁画や楔形文字の記録によれば、彼らは軍事的・行政的な組織化を図るために各地に行政官を配置し、土木事業や灌漑設備を整えたとされる。シュメール人の都市国家をつぎつぎに征服し、前24世紀頃、メソポタミア最初の統一国家を建設した。このメソポタミア最初の統一国家は、さらにシリアや小アジアやアラビアにまで支配の手を伸ばしたが、約1世紀後に当方の山岳民の侵攻をうけて滅んだ。
アッカド帝国の成立
- サルゴン王の登場: サルゴンは王朝の祖として伝わり、周辺の都市国家を征服しながら領土を拡大させた。
- 首都アッカド: 文献によっては位置が明確でないが、ティグリス川とユーフラテス川の間付近に都を置いたと考えられている。
- 行政制度の確立: 征服地には総督を派遣し、地方を管理することで帝国全体を効率よく統治する仕組みを整備した。
サルゴン1世 サルゴン1世は、前24世紀頃、アッカド人の王である。シュメール人を滅ぼし、メソポタミア最初の統一国家を樹立し、交易圏・文化圏を拡大した。 言語と文化
アッカド人が用いたアッカド語は、シュメール語と並んでメソポタミアの主要言語となった。楔形文字で記録され、王の勅令や交易契約など公文書の作成にも広く利用された。アッカド語はオリエント世界における国際語としてアッカド滅亡後も長く使用された。文化面ではシュメール神話や習慣の多くを受容しつつも、自らの伝統や習俗を融合させる形で独自の宗教観を形成した。彫刻や印章などの工芸品も残されており、精緻な人型像や動物像を刻んだ円筒印章などが繁栄の証として発掘されている。
アッカド語
アッカド語はオリエント世界における国際語としてアッカド滅亡後も長く使用された。なお、アッカド市の遺跡は未発見である。
シュメールとの関係
- 文化的相互作用: シュメール人から文字技術や都市計画を学び、逆に自らの軍事組織を通じて周辺地域に影響を及ぼした。
- 政治的統合: アッカド帝国の成立後、シュメールの各都市はアッカド王の統制下に組み込まれ、多くの地方行政官が配置された。
外交と交易
シュメール時代同様にアッカド人も活発な交易を行ったとされる。レバント地方やアナトリア高原、さらに東方のエラム地方などとも物資や文化を交換し、遠隔地貿易の網を広げた。特に貴金属や木材、建築資材などのやりとりが重要視され、これらの交易ネットワークを支配することで、帝国の財政を安定させた。外交面では近隣勢力との同盟関係を築くことも多く、婚姻政策などを通じて他民族との関係を強固なものにした。
都市と社会構造
中心となる都市では王権を示す巨大な宮殿や神殿が建立され、そこに祭司や官僚が集まった。社会構造は王を頂点に軍事貴族や神官層、自由農民、職人、奴隷といった階層に分かれていた。灌漑農業の発展による生産力の上昇に伴い、余剰生産物を背景に職人や商人階層が成長した点も特徴である。王は軍事と宗教の両面から統制を図り、征服地域に対しては多民族の自治をある程度認めつつ貢納を徴収することで帝国の運営資金を得た。
神話と宗教観
メソポタミア文明全体に共通する多神教的世界観を受容し、嵐の神や豊穣の神など複数の神々を信仰した。神話体系はシュメール神話を基盤としながら、時にアッカド王家を神格化するような王権神話が創出された。王自身を神々の代理人と位置づけることで統治の正当性を高める意図があったとされる。祭祀や儀式は大掛かりなものが多く、都市ごとに異なる主神を祀る習慣も継続された。
歴史的評価
サルゴンが築いたアッカド帝国は、古代メソポタミア世界で初めて広域を統一した帝国として評価される。その後のウル第3王朝など、後続の王朝の成立プロセスにも大きな影響を及ぼしたことは間違いない。なおアッカド帝国が衰退した理由としては、外敵の侵入や内部反乱、経済の停滞など諸説が存在する。こうした歴史的盛衰の経緯を通じて、メソポタミア地方における多民族社会の形成や文化の混合がさらに進展していったと考えられる。