韃靼
韃靼とは、東アジアから北方ユーラシアにかけての遊牧・半遊牧の諸集団を指す歴史的呼称である。中国文献では主として北方草原の勢力に対する外称として現れ、日本でも近世の世界地誌や地図において広域名として流通した。語は本来の民族名を超えて、時代ごとに対象が変動する可変的なラベルであり、狭義のタタール人(タタール)のみを示すとは限らない点に注意を要する。日本語では地名「韃靼海峡」や作物名「韃靼そば」などにも残り、地理・文化・博物学の領域で広く用いられてきた。
語源と呼称の変遷
韃靼は、欧語の“Tatar/Tartar”に対応する表記として受容された。中世末のヨーロッパでは“Tatars”が“hell (Tartarus)”に連想的に結びつけられて“Tartar”とも書かれ、これが漢字文化圏での音訳・意訳の広がりに影響した。東アジア史料では、時に北元系の勢力、またはオイラトなどの草原諸部を包含的に呼ぶことがあり、対象は固定的ではない。ゆえに、特定民族名としてのタタール人と、広域呼称としての韃靼は区別して理解されるべきである。
地理的イメージと広域名「タルタリア」
早くから欧亜交流の地理図において、中央ユーラシアからシベリアに広がる曖昧な広域が“Tartary”として描かれた。日本でも近世の知識人は、北方アジアを大づかみに示す視覚的ラベルとして韃靼を採用し、樺太と大陸の間の海峡は「韃靼海峡」と呼ばれた。ここでの韃靼は、厳密な民族区分よりも地理・文化圏の概念に近い。
歴史的展開
草原世界は部族連合の結成と解体を反復し、その都度、漢文史料・和文史料の呼称も揺れ動いた。とくにモンゴル帝国の形成と分裂は、東アジアの政治・交易・軍事均衡を大きく変え、以後の北方勢力はしばしば韃靼と総称された。明朝の北辺政策や清朝の興起も、この可動的な草原世界との相互作用として理解される。
- 前近代:契丹・女真・モンゴルなどが交替的に台頭
- 元代:元は広域支配のもとで草原—農耕世界を結合
- 明代:北辺の「敵対者」を輪郭づける外称として韃靼が用例を増す(情勢により包含対象は変動)
- 清代:清の拡大とともに、満洲・モンゴル・新疆・ロシア方面との境域認識が再編
社会・文化と交易
韃靼に含まれてきた諸集団は、移動放牧を基盤としつつ、隊商交易や軍事的進出を通じて東西世界を連結した。馬・皮革・家畜製品の供給は、農耕地帯の穀物・絹・金属製品と交換され、草原と定住社会は結節的に結びついた。日本に伝来した「韃靼そば」は作物地理の記憶として残り、名称のうえで韃靼が文化史にも刻印されている。
東アジア史のなかの位置づけ
東アジアの王朝史は、北方勢力との均衡・交流・衝突によって屡々構図を変えた。大都から北京へとつながる政治空間、長城線上の防衛体制、朝貢・互市の制度などは、常に韃靼と呼ばれた広域勢力の動向に応じて再設計された。これらは明の冊封・互市、清の皇帝—遊牧貴族関係、さらには北東アジアの満洲やシベリアの開発、ロシアの南下とも連動していた。
用語上の注意
韃靼は歴史的・地理的な総称であり、厳密な民族分類名ではない。狭義の民族名としてはタタール人を指すが、史料ではモンゴル系・テュルク系・ツングース系の諸部まで含意しうる。したがって、特定事件や地域を論じる際には、当該史料での指示対象を確認し、「タタール人」と韃靼(広域名)を峻別することが学術的に求められる。
日本史・知識史との接点
日本の地理書・世界図や蘭学資料には、北方アジアの広域を示す語として韃靼が頻出する。近世の知的ネットワークは、中国・欧州双方の情報を摂取し、用語の層位を積み重ねた。東アジア外交や交易史との接点では、明・北方勢力間の関係や日本の対外関係(例:日明貿易)の理解にも、広域概念としての韃靼が背景知として参照される。
なお、近現代以降は民族自称・国家名・行政区分が整備され、学術用語としての使用は精確化が進む。研究上は、文脈ごとに対象を限定し、例えばモンゴル帝国期、元統治下、明北辺政策、清の内陸アジア統治など、具体的枠組みの中で韃靼を読み解く姿勢が重要である。