衛門府|宮門警備と京中の巡検を担った官司

衛門府

衛門府(えもんふ)とは、古代日本の律令制下において設置された軍事組織および官庁である。宮城の門の警備や、門から出入りする者の検察、巡検、ならびに儀式での供奉などを主な職務とした。当初は単一の組織であったが、後に左衛門府と右衛門府の二局に分割され、衛門府と衛士府の統合を経て、最終的には五衛府(後に六衛府)の一つとして、宮中の治安維持において中核的な役割を担った。平安時代中期以降、司法・警察機能を一手に引き受ける検非違使が台頭すると、衛門府の実質的な権限は形骸化していったが、その官職名は武家の官位として長く残り続けた。

沿革と成立の背景

衛門府の起源は、律令制が本格的に導入される以前の「門部(かどべ)」や、大化の改新前後から見られる宮門警備の職務にまで遡ることができる。文武天皇の大宝律令(701年)において正式に官制として整備され、五衛府(兵衛府、衛士府、衛門府)の一角を占めることとなった。当初は「衛門府」として独立していたが、和銅4年(711年)にはその一部が分割され、天平宝字2年(758年)には衛士府と統合されて「西衛上府」と改称されるなど、数度の組織改編を経ている。最終的には大同3年(808年)の官制改革により、左右の衛士府を吸収・統合する形で「左衛門府」と「右衛門府」の二局体制が確立し、平安時代を通じてこの形式が継続されることとなった。

職掌と主な業務

衛門府の第一の任務は、宮城の諸門の開閉および警備である。これには、門を通過する官人や一般庶民、物品の出入りを厳格にチェックする門検(もんけん)も含まれる。また、夜間における宮中および京内の巡邏(パトロール)も重要な役割であった。特に儀式の際には、天皇の行幸に際して先導や護衛を務め、威儀を整える軍事的象徴としての側面も強かった。さらに、諸国から徴用された衛士の管理や教育も担当していた。これらの業務は、国家の最高機関である奈良時代から平安時代にかけての天皇の権威を物理的に守護するものであり、その責任は極めて重かったと言える。

  • 宮城諸門の開閉および警備(門検)
  • 夜間の巡邏および不審者の捕縛
  • 天皇の行幸・儀式における供奉および警護
  • 諸国から上京した衛士の統括および管理

組織構成と四等官

衛門府の組織は、他の律令官制と同様に「長官(カミ)」「次官(スケ)」「判官(ジョウ)」「主典(サカン)」の四等官制で構成されていた。左右の衛門府にはそれぞれ督(かみ)、佐(すけ)、大尉・少尉(じょう)、大志・少志(さかん)が置かれた。特に長官である衛門督は、検非違使別当を兼任することが多く、平安時代においては軍事・警察の実力者としての地位を確立した。以下の表は、一般的な衛門府の職員構成を示したものである。

官職名 定員 主な役割
督(かみ) 各1名 府の最高責任者。宮中警衛の総督。
佐(すけ) 各1名 督を補佐し、実務を統括する。
大尉・少尉 各2名 現場の指揮および門検の実施。
大志・少志 各2名 公文書の作成、事務管理。
府生 各20名 下級事務官。
番長 各4名 衛士を直接指揮する現場リーダー。

検非違使の台頭と衰退

弘仁7年(816年)頃に設置された検非違使は、当初は衛門府の内部組織のような位置付けであった。しかし、京内の治安悪化に伴い、検非違使が裁判や刑罰執行までを担うようになると、本来の軍事組織であった衛門府の役割は急速に縮小していった。平安時代後期には、実質的な警備権限は検非違使庁に移管され、衛門府は儀式的な存在へと変貌を遂げた。しかし、その官位は依然として高い格式を持ち、中世以降の武士階級においては、源氏や平氏の有力者が「衛門尉(えもんのじょう)」などの官称を名乗ることが名誉とされた。これは養老律令以来の格式が、武士のアイデンティティの一部として受容された結果である。

文化・社会における衛門府

衛門府は文学作品の中にもしばしば登場する。例えば『枕草子』や『源氏物語』では、貴族たちが衛門府の官職に就くことが、その家柄や出世コースにおける重要なステップとして描かれている。また、衛門府に所属する下級官人や衛士たちの生活は、地方から徴兵された民衆の苦難を象徴するものとして、和歌や説話の題材にもなった。律令国家が整備したこのシステムは、単なる警備組織を超えて、古代日本の官僚社会の構造や、地方と中央の結びつきを理解する上で欠かせない歴史的事象となっている。